『おとうさんがいっぱい』(理論社)

少し前にTwitterで流行った「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグ。私は迷った結果、メルヴィルの『バートルビー』をあげたのだが(書評はこちら)、児童書であるにも関わらず三田村信行の『おとうさんがいっぱい』をあげている人が多いことを知った。

「子供の頃に読んでトラウマになった」、「大人になって読み返してもやっぱりこわかった」などの声が多く、気になったので調べてみたところ、なんともシュールな表紙の本が出てきたので思わず買ってしまった。

『おとうさんがいっぱい』には「ゆめであいましょう」、「どこへもゆけない道」、「ぼくは五階で」、「おとうさんがいっぱい」、「かべは知っていた」の5つの短編小説が収録されている。小学3〜4年生向けとのことで、いずれの小説も児童書的な言葉遣いや表現が使用されており、平易でわかりやすく、読みやすい。読みやすいが…確かに怖い。今まで出会ったことのないタイプの児童書だ。不条理で救いのない結末が、なんとも言えないざらりとした読後感を残す。

できれば子供の頃にこの本に出会いたかった。今までの人生の中で身につけてきた知識や経験がなければ、もっと純粋に衝撃と怖さを感じることができたかもしれない。なので、この本に興味をもった人は、下記の感想や、アマゾンのレビューなどを読まずに、とりあえず読んでみて欲しい。

ちょっとそれは怖い…という人はスクロールして、書評の続きをどうぞ。

『おとうさんがいっぱい』に収録されている5つの話全てが、少年とその両親という、家族の中での話になっている。読者である子供が自身を投影しやすいと言うのが一番の理由だと思うが、子供にとって最も身近な所にある社会が家族だから、という理由もあるだろう。

そして、いずれの話もテーマとなっているのが、自己存在の不確実性である。自分が認識している現実は自分だけにしかわからないし、その現実を認識している自分という存在も、自分の中にしかない。しかしながら普段私たちは、自分が認識している現実は他者も同じように認識しているものだと思い込んでいる。そうすることにより、他者も自分の存在を認識していると信じることができるからだ。

この本はそうした当たり前だと思っている認識に揺さぶりをかけてくる。本当に自分はここにいるのか、という自己の存在に対する疑念を囁きかけてくる。だから怖いのだ。この怖さはホラー的なものではなく、自分を失うことへの恐怖、ある意味「死」の恐怖に近い、根源的な怖さである。

最初の物語「ゆめであいましょう」では、「夢を見ている自分」と「夢の中の自分」との対比を用いて、自己存在の不確実性を描いている。個人的には、この話が一番怖かった。

ミキオは毎日夢を見る。夢にはいつも、どこかで見たことのある子供が出てきて、毎日少しずつ成長していく。子供が少年になった時、ミキオはその少年が自分自身であることに気がつく。驚くミキオに向かって夢の中の少年は「ぼくのちいさいときからぼくのゆめにあらわれてきたやつ。」と言う。

どちらが本当のミキオなのか、もしかしたら夢の中にいたのは自分の方だったのではないか。そうした疑念が湧き上がってきた瞬間、ミキオは目覚め、やはり夢であったと安堵する。しかし不安な気持ちは拭いきれず、しっかり自分の存在を確かめようと起き上がり、隣に寝ている<はず>のお父さんの方へそっと手をのばしたのだが…。

自分が見ている現実は、本当に現実なのか。視点を変えれば、全く違う世界が見えてくるのではないか。こうしたテーマは様々な文学作品でよく扱われているものだ。メルヴィルの『漂流船』も、見る者の立場や価値観によって現実は変わるということをテーマにした作品だ。児童書で言えば、ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』がある。

ヨシタケさんの本は怖くないのに、この本が怖いのはなぜか。佐々木マキさんの挿絵が怖いというのもあると思うが、何より社会の不条理さとそれに対する絶望感が盛り込まれている点に、その原因があると思う。

この社会にはどんなに頑張っても自分の力ではどうすることもできない事があること、人はみんな自分の都合の良いようにしか物事をみていないこと、自分がいなくなっても社会はつつがなく営まれていくこと。こうした人間社会の残酷さと絡めながら自己存在の不確実性を突きつけてくる点に、この本の怖さがある。児童書とは思えない、救いやフォローのない冷酷な結末に、読者は愕然とし、恐怖するのだ。

こんな風に書いているとトラウマしか生まない暗い本だと忌避されそうだが、決してそうではない。最後の物語「かべは知っていた」には、一筋の希望が見出せる。

「かべは知っていた」の最終ページで、主人公カズミは自ら一人で歩むことを決意する。父親が存在した証である「ゆい言」と「遺産」を手に、思い切って道を曲がり、ずんずん歩きながら思う。

いい天気だな。こんな日にゃあ、なんかいいことがきっと起こるぞ

不条理な社会の中で、不確実な自己を保ちながら絶望せずに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私はカズミの行動の中に、その問いの答えを見いだすことができた。

先にも書いた通り、私はこの本を子供の頃に読んでみたかった。だからななちにもできれば早いうちに読んでもらいたいと思っているが、それをやると押し付けになってしまう。

また、彼女の怖がりな性格を考えると、衝撃が強すぎてトラウマとなる可能性がある。一人で寝ることができなくなったり、一人で留守番できなくなったりするという後遺症がでてしまったりすると、私的にも困る。

なのでななちが自分から手に取り、読んでみようと思うまで気長に待つことにする。

もしかしたらずっと読まないかもしれないが…それはそれで良いと思っている。

『ぼくは王さま』(理論社)

小学一年生の時、初めて図書室で借りたのがこの本だった。私が入学した小学校は、アラビアの僻地にある小さな日本人学校だったが、ちゃんと図書室というものがあった。びっしりと本が置かれたスチール棚が何台も並んでいる小さな部屋に入った時、たくさん本がある!全部読みたい!と感動したのを覚えている。

そして、見上げるような高さのスチール棚から『ぼくは王さま』を手に取り借りた。この本を選んだ理由は、背表紙のタイトルのレタリングが他の本と違っていて目を惹いたからだった。(このタイトルのレタリングは第2話の「しゃぼんだまのくびかざり」をイメージしたものだと思われる。)

どこの おうちにも
こんな 王さま
ひとり いるんですって

そんな前書きからはじまるこの本には「ぞうのたまごのたまごやき」「しゃぼんだまのくびかざり」「ウソとホントの宝石ばこ」「サーカスにはいった王さま」という4つのお話が収録されている。

主人公はたまごやきが大好きな王さまである。王さまはぞうのたまごのたまごやきが食べたいとか、しゃぼんだまの首飾りが欲しいとか、突飛なことを言っては大臣たちを振り回している。それに大変嘘つきだし、注射が嫌だからといってお城から逃げたしたりしてしまう臆病者でもある。子供の頃の私は、漠然と「だめな王だなあ」と思いつつも、やっぱり王さまがすきだった。

王さまは、しゃぼんだまの首飾りを手に入れるために汗水垂らして畑を耕す真面目なところがあるし、一生懸命作ったしゃぼんだまの首飾りを国民に配ってあげたりする優しさをもっている。嘘つきを見破る箱を使って、攻めてきたとなりの国の王様を退ける知恵をもっているし、無一文でお城を逃げ出した時にくすりを出してくれたくすり屋に、日銭を稼いでお金を払う義理堅さもある。

ダメな王様だが、どこか愛嬌があり憎めない。傲慢で自分勝手で無知だが、経験や学びによって、少しずつ成長していく。実に人間らしいと思う。おべっかを使う大臣も、適当な嘘でごまかす学者も、相手によって態度を変えるくすり屋も、私たちの周りでもよく見かけるタイプの人物ばかりだ。

欺瞞に満ちていると失望しつつも、時折垣間見える温かみや思いやりに救われ、やはり愛さずにはいられない…。王さまの国は、私たちの社会そのものなのかもしれない。

ハリネズミの願い(新潮社)

毎年難航する夏休みの読書感想文。この夏、ななちが課題本として選んだのが、トーン・テヘレンの『ハリネズミの願い』だ。十中八九、ハリネズミというだけで選んだのだろう。

秋のおわりが近づいてきたある日、ひとりぼっちのハリネズミが森のどうぶつ達を家に招こうと思い立つところからこの物語は始まる。

他のどうぶつたちは互いの家を尋ね合っているのに、ハリネズミの家にはだれもやってこない。自分が孤独なのは、だれもまだ一度も森のどうぶつを家に招待していないからだと考えたハリネズミは、森のどうぶつ達へ招待の手紙を書き始める。

しかしいざ手紙を書きはじめると、

あらゆるどうぶつが美味しいと思えるケーキなんて作れるのだろうか。
ハリネズミの家はつまらなかったと失望されるのではないか。
自分の快適な家を壊されるのではないか。

と様々な不安に襲われ、手紙を出すことができなくなってしまう。
頑張って招いたところで、自分が嫌な思いをするだけではないのか。そもそも自分は本当にどうぶつを招きたいと思っているのか…。

数日間、一人で逡巡し、思い悩み、ハリネズミが出した答えは「ぼくはだれにも訪ねてきてほしくはない」だった。

頭の中で悶々と後ろ向きな想像ばかりして、何の行動も起こせないハリネズミのことを臆病なコミュ障だと言ってしまえばそれまでだ。しかしながら、頭の中で繰り広げられる様々な訪問客とハリネズミのやりとりを読んで、身につまされる人は多いのではないだろうか。

怒ることが気持ちがよいと一人で怒っているヒキガエルに、一方的に自分のことばかり話して人の話を聞こうともしないキリン。部屋の中に勝手にお風呂を作って自己満足に浸る押し付けがましいカバ。そして「なんとなく」という理由でハリネズミの針をぬく暴力的なロブスター。ハリネズミが怖れるこれらの訪問者みたいな友達が、あなたの周りにもいたりしないだろうか。

一緒にいても全く楽しいと思えないけれど、仲間外れになるのが怖いから、我慢しながら友達づきあいをしている人は多いと思う。しかしハリネズミは、そんな思いをするくらいなら一人の方がずっとよいと孤独を選んだ。自分の心に正直な勇気のある決断だと思う。

自分を押し殺し、無理をしてまで友達なんか作らなくていい、そう決断したハリネズミの元に「なんとなく、ハリネズミが喜ぶかもしれないと思った」と、リスがふらりとやってくる。自分を偽るのをやめた時にこそ、自然に付き合うことのできる本当の友達に出会うことができる。二匹が仲良くお茶を楽しむラストシーンには、そんなメッセージが込められていると感じた。

わたしたちの古典『百人一首』(学校図書)

昨年末に夫が、朗詠CD付きの小倉百人一首を買ってきてくれた。CDが句を詠んでくれるため、3人で対戦ができるものである。そんな訳で、このお正月は、家族で百人一首にハマっていた。

子供の頃は結構覚えていたので、それなりに自信があったのだが、思っていた以上に忘れてしまっていた。そんな訳で、学校でリアルタイムに友達とやっているななちと、安定的になんでもこなす夫に圧倒され、一人惨敗…。上の句の状態でバンバンとられてしまうので、勝ち目がない。

昔はできたのに…!と言っても二人とも信じてくれるわけもなく…悔しい。悔しいのでちょっと勉強してやることにした。

とりあえず手にとって読み始めたのが、夫がななちのために買ってきた学習漫画的な本、学校図書のコミックストーリー「わたしたちの古典」シリーズの『百人一首』である。時代を感じさせる少女漫画的なタッチのイラストがなんだか懐かしい。しかし、内容は充実していると思った。うたの内容はもちろん、そのうたが詠まれた情景も漫画で説明してくれている。

百人一首の大半を占めるのが、おこちゃまにはわかりにくい恋愛の歌である。ゆれうごく微妙な乙女心や悩める男心など、言葉では説明しにくい気持ちも、漫画を通せば視覚的に伝えることができる。うたの意味が理解できると、上の句、下の句のつながりも自然に覚えることができるようになり…札がとれるようになる。

この本を読破した後の試合では、ななちに5枚差にまで迫ることができた。昔覚えていたから、それを思い出せるようになった…というのもあると思うが、最初は10枚程度しかとれなかったのが、ななち並みにとれるようになったのだからかなり効果はあったと言えるだろう。(私に負けられないとななちも必死に読み始めた。)

『ドリトル先生』(岩波書店)

今年ななちが一番ハマって読んだ本が、動物と話ができる獣医のドリトル先生が、動物達と共に様々な冒険をする物語『ドリトル先生』シリーズだ。

子供の頃に読んだ時には、私もななちと同じく、オウムや犬、サル、ブタ、ワニに至るまで、いろいろな動物と自由に話ができるドリトル先生ってすごい!という純粋な憧れしかなかったが、大人になった今、改めて読み返してみると、当時は見えなかった色々なものが見えてくる。

「ドリトル先生」の名前は、井伏鱒二氏がこの物語を翻訳した際につけた名前であり、原文では「Dr. Dolittle」と表記されている。つまりdo little…なまけ者の医者、ヤブ医者という意味が込められているのだ。このことからも、ドリトル先生は、元々、一癖ある人物として設定されていると言えるだろう。

ドリトル先生は、動物への愛情は深く、義理堅い善人ではあるのだが、動物達が心配するくらい、お金に執着がない。むしろ「金がないと、何も手に入れることができない」人間社会というものを嫌悪している。「金払いのよい人間よりも、動物のほうが、かわいい」と断言し、実の妹にも愛想を尽かされ出て行かれてしまうほどだ。

少年のような純粋さゆえ、ともすれば社会生活不適合者となりかねないドリトル先生を社会につなぎとめているのは、現実的で賢いオウムのポリネシアを筆頭とする動物達だ。動物達は、金がなくては生きることさえ難しい人間社会を「奇妙なもの」としながらも、敬愛するドリトル先生のために、知恵を絞り、自分達ができることをして先生をフォローしようとする。真正直なドリトル先生に対し、生きていくためには金を稼ぐ必要があり、時には人を出し抜いたりすることも必要だと説くその姿は、ある意味ドリトル先生よりも人間臭い。

動物達のためなら、現実や我が身を顧みず助けてやろうとする善意の塊のようなドリトル先生と、その先生を敬愛しながらも、現実的な視点に立ち、先生をフォローする個性豊かな動物達。彼らが織りなすドタバタ冒険物語が描いているのは…人間社会の世知辛さと温かみ、そのものなのではないだろうか。

『ムーミン谷の11月』(岩波書店)

久しぶりの絵本レビューは『ムーミン谷の11月』。『ムーミン谷の彗星』と並んで好きな物語だ。『ムーミン谷の11月』は、ムーミンシリーズの最終話であり、『ムーミンパパ海へ行く』と対になっている物語である。

ムーミンパパの突然の思いつきにより、ムーミン一家はムーミン谷を飛び出し、灯台のある無人島で暮らし始める。(『ムーミンパパ海へ行く』)『ムーミン谷の11月』は、その間の谷の様子を描いた物語である。つまり、ムーミンシリーズでありながら、ムーミン一家が全くでてこない物語なのだ。

沈んだ気持ちになった時や不安な気持ちになった時に、自然と足が向くところ。それが、ムーミン一家の家だった。いつも迎え入れてくれる、心の拠り所となっていた存在を、何の前触れもなく失ってしまった、ムーミン谷の住人。誰もが動揺を隠せず、慰め合うように、共同生活を始めてみるものの、ムーミン一家がいた頃への憧憬が高まるばかりで、今の生活には不満しかない。そのため、住民同士の諍いも絶えない。

この物語に描かれているのは、大切な存在を失った深い喪失感だ。ムーミンシリーズ上、最も陰鬱な話だと思うし、とても子供向きの童話とは思えない。しかしながら、この物語に惹かれるのには理由がある。最後に救いがあるからだ。

喪失系の物語は「失ったものが戻り、みんなも元に戻りましたとさ。めでたしめでたし。」といった終わり方をするものが多いが、この物語は違う。最終的にムーミン一家は谷に帰ってくるのだが、住民達は、ムーミン一家が戻る前に、自分達自身で気持ちの折合いをつけ、立ち直って自分の家へと帰っていく。そこに救いがあるのだと私は感じる。

別れてしまった恋人、病気や事故で亡くなってしまった人、剥奪された名声など、現実の世界では、一度失ってしまったものを元どおりに取り戻すことは不可能だ。そのため「失ったものが戻ったので、元どおり」という結末はファンタジーであり、そこに現実的な救いはない。

しかしムーミン谷の住人は、喪失感や絶望と戦い、不満や不安をぶちまけながらも、最終的に自分達の力で立ち直っていく。この姿に、どんなに大きな喪失も、時間をかければ少しずつ埋めていくことが可能なのだという救いを見ることができるのだと思う。

心が疲れてしまった時、落ち込んでいる時に読むと、陰鬱なストーリーが沈んだ気持ちに寄り添ってくれ、最後には希望を与えてくれる。気持ちが落ち込んでいる時には、無理に元気になろうと頑張らなくていい。淡々と日々を過ごしていくうちに、自然にゆっくり回復していくから。この物語は、そう語りかけているような気がする。

『スプーンおばさんのぼうけん』(学習研究社)

私が子供のころテレビで放映していた「スプーンおばさん」が、最近夕方に再放送されていると知り、録画してななちと見ている。オープニングソングもエンディングソングも記憶の通りで、懐かしい。ななちに、多分図書館に原作の絵本があるから探してごらん、といったら早速図書館で『小さなスプーンおばさん』を見つけてを借りてきて読んでいた。

続編があるらしいけど、図書館にはないみたい…というので、続編『スプーンおばさんのぼうけん』を購入。池で水泳の練習をしたり、近所の男の子や女の子のために一肌ぬいだり、スキーの大会に出たりと、小さくなったおばさんは前作以上にアクティブに冒険をする。

突然ティースプーンくらいに小さくなってしまうという特異体質にも関わらず、おばさんはそれをすんなり受け入れ、動じず、その状況でできる限りのことをしようとする。しかも、そこに必死さはない。このどっしりと構えた安定感は、私の敬愛するムーミンママに通じるものがある。

スプーンおばさんの舞台も、ムーミンと同じく北欧…ヨーロッパ屈指の豪雪地帯である。昔、フィンランドに行った時、道端に停められた自動車が頭まで埋まっているのをみた。それも一台や二台ではない。どの車もこの雪じゃどうせ車走れないし…的なのりで置きっ放しになっているようだった。その大らかさにちょっと驚きつつも、なんかいいなあと感じた。

スプーンおばさんといい、ムーミンママといい、北欧の物語に出てくる女性は、どんなアクシデントが起こっても、動じたり、おろおろしたりせず、「あらあら」とその状況を受け入れ、マイペースに対応している。(そこに痺れるッ!憧れるッ!)冬場は雪に閉ざされてしまうような厳しい自然の中で暮らし、自然の力の偉大さと人間の力の限界を肌で感じているからからこそ、世の中何もかも思い通りにはいかないものだ…ということを悟っている、ということなのかもしれない。

『ことわざ絵本』(岩波書店)



久しぶりの絵本レビューで紹介するのは、ことわざブームなななちが、最近、夢中になって読んでいる絵本。ことわざの由来や意味を、話しかけるように、とてもわかりやすい言葉で説明している『ことわざ絵本』だ。

五味太郎さんのユニークでゆるいイラストも魅力だが、このことわざ絵本の一番の魅力は、ことわざを今風の言葉に置き換えて説明しているところにある。例えば、「急がばまわれ」は「あせってガックリ」、「出るくいは打たれる」は、「美人はつらいよ」、そして「火のない所に煙はたたぬ」は「屁のない所にあぶくはたたぬ」、となる。

ことわざには普段の生活ではあまり使われない古い言い回しや昔の習慣(経を読む、兜の緒をしめる、など)が使われていることが多い。この絵本では、そうした言い回しを、現代の口語体や身近な事象に置き換えて解説してくれているので、ことわざを自分の生活に結びつけて理解することができるのである。そして、ことわざの意味を理解した上で、自分だったらこんなことわざをつくる!とさらに思考を一歩進ませることができる。一般的なことわざ辞典よりも、ことわざを気軽に楽しく学ぶことができる。

ななちも日々いろんなことわざを作って遊んでいる。「ななちにお寿司」(=猫に小判)、「パパの耳に文句」(=馬の耳に念仏)、そして「ママにダイエット」(あえて言うまい…。)…などなど。親子で楽しくことわざを学ぶことができる絵本だと思う。

『大どろぼうホッツェンプロッツ』(偕成社)

この本を読んだことがある人は割と多いのではないだろうか。あごひげを生やし、帽子をかぶった大どろぼうホッツェンプロッツ の物語だ。小学校の図書館には必ず置いてあるに違いない。

大どろぼうホッツェンプロッツに盗まれたコーヒーひきを、二人の少年カスパールとゼッペルが取り戻しに行く冒険物語である。タイトルはホッツェンプロッツだが、物語の主人公は実は二人の少年の方である。この本の魅力は何と言っても強烈な個性を持つキャラクターとテンポの良いストーリー展開にある。

まずキャラクターについて言うと「ホッツェンプロッツ」とか「ペトロジリウス・ツワッケルマン」という発音しにくい名前は、かえって強く印象に残るため、一度覚えたら忘れにくい。さらに大どろぼうのくせに実弾ではなくコショウピストルを使ったり、人間を鳥やカエルに変えるほどの魔力を持つ大魔法使いなのに、ジャガイモの皮は手剥きこだわったりしている敵キャラクター達は、悪党であることは間違いないのに、どこかユニークで愛嬌がある。

次にストーリー展開だが、こちらも実に秀でている。次から次へと物語が展開していくため、一つの章を読み終わっても、次の展開が気になり「あと一つだけ」「もう一つだけ」とついつい読み進めてしまう。小学生の頃、休み時間にうっかり図書館で読み始めてしまったことをひどく後悔したのをよく覚えている。(もちろん速攻借りて、家に帰って一気に読破した。)子供達二人が頭を使い、力を合わせて大人を出し抜くという点も痛快だ。

作者のオトフリート・プロイスラーは小学校の教師をする傍らアマチュア演劇やラジオドラマの脚本なども書いていたそうだ。この本を読んでいる時に感じる、まるで芝居を見ているかのようにその世界に引き込まれてしまうような感覚は、この本が喜劇的な要素を持っているためなのかもしれない。

『くまのテディ・ロビンソン』(福音館書店)

この夏休みの読書用に購入した児童書の一つ『くまのテディ・ロビンソン』は、女の子とくまのぬいぐるみ、テディ・ロビンソンの日常を描いた物語である。

くまのぬいぐるみの物語と言えば、1926年に発表されたA.A.ミルンの『クマのプーさん』(Winnie-the-Pooh)が有名だ。しかしながら「プーさん=ディズニーの赤いベストを着たクマのキャラクター」というイメージが強いためか、プーが普通のクマではなく「クマのぬいぐるみ」であることを知らない人は以外と多いし、もう一人の主人公である、ぬいぐるみの持ち主クリストファー・ロビンの存在もあまり知られてはいない。原作のプーは、ディズニーとは全く異なる、ちょっとシニカルで独特の味がある物語なので、ぜひ一読してほしい。

話がそれてしまったが、『クマのプーさん』は作者が息子のクリストファー・ロビンと彼が持っていたくまのぬいぐるみ「プー」を主人公にした物語である。これに対し『くまのテディ・ロビンソン』は作者の娘デボラと彼女のテディ・ベアを主人公としている。このように、二つの物語は設定がとても良く似ているのだが、物語の雰囲気はまるで異なる。主人公が男の子か女の子か、という部分も多少影響していると思うが、一番の違いは、プーとクリストファー・ロビンは、コブタやフクロ、ウサギといった動物達と一緒に「百町森」という夢の世界に住んでいるのに対し、デボラとテディ・ロビンソンは母や祖母、友達の暮らすリアルな世界に住んでいる、と言うところにある。だから、テディ・ロビンソンは、ファンタジーの中に生きるプーのように自分で動くことはできないし、テディ・ロビンソンと話ができるのは実質持ち主であるデボラだけである。つまり、プーの物語は少年クリストファー・ロビンが「百町森」というぬいぐるみ側の世界に入って展開されているのに対し、テディ・ロビンソンはデボラの暮らす人間の世界で物語が展開されているのである。

テディ・ロビンソンはデボラの手によって病院やお店、遊園地など色々なところに連れて行かれ、そこで様々な事件に巻き込まれる。お店に置いていかれてしまったり、小さな子供に壊されてしまったり…私達の日常の中でも普通に起こりうる、ささいな出来事だが、当事者にとっては大事件である。お気に入りのぬいぐるみに話しかけたり、お世話をしたり、持ち歩いたりしたことのある子であればすんなり感情移入できるのではないだろうか。(うちの娘が持ち歩いたのは、ぬいぐるみでなく恐竜フィギュアであったが…。)

事件に巻き込まれた時、テディ・ロビンソンは基本的に自分ではどうすることもできないので、とりあえず考えたり歌ったりして事態の解決を待つのだが、テディ・ロビンソンを取り巻く人々は皆、思いやりがありユニークで、事件はいつもハッピーエンドを迎える。いずれのエピソードも、読んでいて温かい気持ちになることができる。
プーとテディ・ロビンソンの性格も大きく異なっている。よく考えたり歌ったりするという部分は共通しているが、プーは比較的単純で蜂蜜と歌のことばかり考えているのに対して、テディ・ロビンソンは、自尊心が強く、嫉妬したり拗ねたりと人間臭い部分があるのだ。どちらも男の子のくまという設定であるが、テディ・ロビンソンの方がいわゆる「女子っぽい」要素がある。

このように、プーとテディ・ロビンソンは、いずれもイギリス人の作者が同じくらいの時代に自分の子供とそのぬいぐるみをテーマに描いた物語であるが、世界観も物語のテイストも大きく異なっている。そこには「父親的視点」と「母親的視点」という作者の立場の違いが反映されているのかもしれない。しかしどちらの作品も、子供に深い愛情を持ち、その姿を温かい眼差しで見守っている…という部分は共通していると思った。

ちなみに、最近知ったことなのだが、『くまのテディ・ロビンソン』の作者ジョーン・ゲイル・ロビンソンは、ジブリの最新作『 思い出のマーニー』(When Marnie Was There)の作者でもあった。映画もなかなか良かったので今度原作も読んでみたい。