『四畳半神話大系』(太田出版)

今年最初の書評は森見登美彦氏の『四畳半神話大系』。15年ほど前に読んで以来、独特の…というかかなりクセの強い森見登美彦氏の世界にハマった。彼の作品は文豪の名作文学を彷彿とさせる古風な文体で大真面目にふざけているところに魅力がある。

『四畳半神話大系』は「四畳半恋ノ邪魔者」「四畳半自虐的代理代理戦争」「四畳半の甘い生活」「八十日間四畳半一周」の四篇から成る短編集で、それぞれ独立したストーリーとして楽しむことができる。でも最初は順番通りに読むことをおすすめしたい。

主人公は薔薇色のキャンパスライフを送り損ねたことを悔やむ大学3回生の「私」。こうなったのは全て悪友「小津」のせいと恨みがましく思いつつも、腐れ縁を切ることができずにいる。もし1回生の時に別のサークルを選んでいればと自分の過去の選択を後悔する「私」であったが…。

登場人物がそれぞれ強烈な個性的をもっており、ストーリー展開も突飛でまるでドタバタ喜劇を見ているようだ。全編通してコミカルでふざけた話なのだが、時折ハッとさせられる部分もある。

例えば「四畳半自虐的代理代理戦争」で描かれている「樋口師匠」と「城ヶ崎氏」との闘いは、実は誰が何のために始めたのかも不明なのに代々引き継がれているものだと判明する。実社会にもこのように意味もなく脈々と受け継がれている不毛な対立は数多くある。

また最後の「八十日間四畳半一周」に描かれている80日に渡る孤独な行軍は、人が生きる姿そのもののように思える。足掻いてみたり、無気力に陥ったり、ヤケになったり、思い出に耽ってみたり…。そして四畳半の部屋が自らの選択によって生じた並行世界であると気がついた時「私」はその無限性を理解する。

毎日生きていく中で私達は様々な選択をしている。時にはほんの些細な選択の違いによって大きく運命が変わることもある。物事がうまくいかなかった時は「あっちを選べばよかった」「ああすればよかった」と後悔してしまうことも多い。そんな時はつい過去の自分を責めてしまいがちだが「とりあえず大目に見てやるにやぶさかではない。」と広い心で受け入れるようになれたらと思う。

『笑うな』(新潮文庫)

今年最後の書評は筒井康隆氏の『笑うな』。タイトルになっている「笑うな」をはじめとする34篇のショート・ショートが綴じられている。

筒井康隆氏と言えば映画化された『時をかける少女』が有名だが、そのイメージでこの短編集を読むと少しびっくりするかもしれない。ブラック・ユーモアのブラック度合いが濃いのである。以前紹介した星新一氏のショートショートの世界をより世俗的にして、エログロ要素を追加した感じだ。なので、好き嫌いは分かれると思う。

もちろん、全てがブラック・ユーモアという訳ではない。34篇のショート・ショートはバラエティに富んでおり、「最初の混線」のように最後のオチでくすりと笑える落語のようなものもあれば、「駝鳥」のように寓話的なものもある。「座敷ぼっこ」はロマンティックなファンタジーで、読後感も良い。

一方でブラックな話はかなり意地が悪い。「傷ついたのは誰の心」や「廃墟」、「べムたちの消えた夜」などはユーモアを感じられないくらいにブラックすぎて、なんとも言えない読後感が残る。

このなんとも言えない読後感の正体はなんだろうと考えながら繰り返し読んだ。そして、これは見て見ぬふりをしている人間の残酷で醜い部分を見せつけられたことによる戸惑いなのではないかという結論に達した。

「正義」に出てくる「彼」のような人はTwitterでよく見かけるし、「チョウ」で記録されている現象は、芸能人の不倫報道で盛り上がるワイドショーやTwitterの炎上騒動を彷彿とさせる。これらのショート・ショートは全てフィクションであるが、現実社会の表象でもあるのではないだろうか。筒井康隆氏はこれらのショート・ショートを通し、不条理で自分勝手な人間や社会を皮肉っているのだと思う。

色々なものへの配慮が求められるようになり、小説や漫画、アニメの表現規制も厳しくなった現代においては、筒井康隆氏のような(良い意味で)ぶっ飛んだ作家はもう現れないのかもしれない。時代の流れだと思うので、それが悪いことだとは言わない。ただ、世の中の作品が配慮されたお行儀の良いものばかりになったとして、人間社会がそれを反映したような差別のない愛と優しさにあふれた平和なものになるかどうかは甚だ疑問だ。

今年からスタートした書評シリーズ。ななちの習い事を待っている間にカフェで読んだ本について徒然と書いてきた。今日で今年の習い事は終わりなので、しばらく読書はお預けとなるため、書評もしばしお休み…。

ふちねこ

今月はキャンペーンしていたふちねこが欲しくて毎週veloceに通った。一番欲しかったチビサンタ猫が一発で当たり嬉しい。

『異邦人』(新潮文庫)

先日久しぶりに体調を崩してしまい、ほぼ丸一日寝室に引きこもっていた。14時間ほど眠り、流石にこれ以上は眠れないが起きることも難しい…ということで久しぶりに『異邦人』を読んだ。決して明るい話ではないが、好きな本である。

『異邦人』は主人公ムルソーによって語られる一人称小説だ。一人称小説は語り手の視点や感情を織り交ぜながら物語が進められるものが多いが、この物語は情景だけを写しとるような形で淡々と語られる。

物語は「きょう、ママンが死んだ」という衝撃的な一文から始まる。人はこの後に母を亡くした息子の悲しみが綴られるであろうと期待するだろうが、いつまでたってもそうした場面は登場しない。

遺体と対面した際も、そこで語られるのは遺体安置所の白い部屋の造りやそこにいた看護婦や門衛の言動のみで、通夜や葬儀の間も、参列する人々の様子が客観的に語られているのみである。

こんなにも感情の描写がないのはムルソーが悲しみのあまり、気持ちを閉ざしてしまったせいなのかもしれない…と解釈しようとするだろうが、母の埋葬後にムルソーは12時間ぐっすりと眠り、翌日は恋人と海水浴や映画を楽しんだ、と語られることによりその期待は裏切られる。

ムルソーにとって一番大切なものは「今この瞬間の自分の欲求」だ。ミルク・コーヒーが飲みたい、煙草が吸いたい、疲れたので眠りたい、女を抱きたい…。場の空気を読むことなく、こうした刹那的な欲求を優先してしまうのである。気遣いのない行動であるが、悪意もない。ただ自分の欲求に正直なだけである。

しかし、こうした態度は彼が無神論者であることと相まって「魂というものは一かけらもない」「人間らしいものは何一つない」と糾弾される要因となってしまう。

ある日、ムルソーは友人の男女関係のもつれに巻き込まれた結果、一人のアラビア人を殺害し、逮捕される。殺害は正当防衛であったと主張する弁護士に対し、検事はムルソーが母の死を悲しまなかったことを引き合いに出し、ムルソーは人間的心情が欠落した存在で、社会的に脅威となりうるとして死刑を要求する。

当のムルソーはそうした裁判の流れを他人事のように眺めているだけで、何も弁明しようとはしない。検事の勝手な解釈と決めつけによって「罪人ムルソー」が作られていく様をみつめながら、早く終わらせて独房に帰って眠ることだけを願う。この場においても自分の刹那的な欲求を最優先にしてしまうのである。その結果、彼は死刑宣告という最悪の結末を招いてしまう。

物語も残すところあと数ページといったところで、ムルソーが初めて感情を剥き出しにする。死刑囚のために祈りを捧げにきたという司祭と対話する中で、ムルソーは「私の中で何かが裂けた」と感じ、怒りを爆発させるのである。

君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。

ムルソーは、何も知らないくせに理解者を気取り、親身に寄り添おうとする司祭こそが、彼の対極にある存在であり、我慢ならない存在であることに気がついたのだ。そして同時に自分がいわゆる「普通の人」とは違うこと…彼の暮らす社会においては「異邦人」であったことを認識したのだろう。常に他人事のように俯瞰して見ていた自分の生が、リアルに自分のものになった瞬間であったのだと思う。

自分は異邦人であった。それを隠すことなく、普通であるふりをせず、自分を貫き通して生きてしまったために、社会から抹殺されることになったのだということを理解した時、彼は初めて世界に心を開き、幸福であったと確信する。

今までずっと淡々とつづられてきた分、最後の爆発的な感情の描写には圧倒されるものがある。静かなモノクロ映画を見ていたはずなのに、最後の最後にそれが色鮮やかな現実世界になった感じだ。2ページにわたり捲し立てられるムルソーの言葉には一種のカタルシスを感じる。

人間も群れで生きる動物である以上、群れに害をなすものや群れに馴染めないものを排除しようとするのは本能的に自然なことなのかもしれない。その一方で、動物にはない理性を有するが故に、平等や博愛の精神を持ちたいと願い、人類みな兄弟、話せばわかる、愛は全てを救う…といった理想を掲げて生きている。不条理なことだが、それが人間社会なのだと思う。

『変身』(岩波文庫)

ななちがカフカの『変身』を読んでみたいと言い出した。国語の教材に冒頭の一文が引用されていて、一体どんな話なのか続きがものすごく気になったらしい。(まあそうだろうな…。)そんな訳で早速アマゾンでポチり、私も久しぶりに読み返してみた。

高校時代に読んだ際には「気持ち悪さ」だけが残った。身も心も毒虫化していくグレゴールの描写も、グレゴールの死によって迎えるハッピーエンド的な描写も、全てが気持ち悪くて不快だった。

あれから時が経つこと25年。当時感じた気持ち悪さは、見えないふりをしていたものを見せられた時に感じる居心地の悪さなのだということに気がついた。

大黒柱として働いていたグレゴールが突然毒虫になってしまった時、家族は彼に降りかかった不幸を嘆いて憐れむが、その存在が次第に家族のお荷物になってくると、彼を疎ましく思うようになる。やがて自分たちの生活に害をなすようになってくると、家族はその死を願うようにすらなり、最後には彼の死を祝って家族旅行へと出かける。

この家族の仕打ちは冷酷に見えるが、こうした事は現実社会の中でも実際に起こっている。介護現場やひきこもり問題、きょうだい児の苦悩など、社会の中には綺麗事ではすまされないことが多くある。カフカは人間のそうした黯い一面を「毒虫」というメタファーを用いて描いたのだと思う。

今回購入した岩波文庫版の『変身』にはもう一編『断食芸人』という短編小説が綴じられている。一世を風靡した断食芸人が、より技を極めようと長期の断食に挑戦するが、人々は新しい娯楽に夢中になり芸人に対する興味を失っていく…といった内容で、想像通りのバッドエンドで結ばれる。悲惨な話だが、似たような事は現代社会でも起こっている。

人間の冷酷さや醜さをありのままに見せつけられると、陰鬱な気持ちになる。自分の中にもそうした部分があるということに気づかされるからだ。しかしそれを受け入れ「自分も含め人間には冷酷で醜い部分もある」と認めてしまえば、楽になると思う。過度な期待をしなくなる分、人に寛容になれるし、自分の事も愛しやすくなるからだ。

高校時代には気持ち悪さしか残らなかった『変身』だが、今回は気持ち悪さと共にバツの悪さと小さな安堵感も残った。

『「知」の欺瞞』(岩波現代文庫)

夫が出張で不在のため、この数日は夜に自分時間がたっぷりとれたので久しぶりにボリュームのある本を読んだ。

この本は「ソーカル事件」を引き起こしたニューヨーク大学の物理学者アラン・ソーカルによって書かれたものである。

ソーカルは科学用語や数式をそれっぽく散りばめただけの内容のない論文(=当時のポストモダニズム思想家の論文のパロディー)をポストモダニズム専門の学術誌「ソーシャル・テクスト」に送り、この論文がデタラメであることを見抜けるかどうかを試した。この悪戯は成功し、論文は高く評価されて雑誌に掲載されてしまう。するとソーカルはその論文がパロディーであることを暴露し、それを見抜けなかったポストモダニズム哲学界を糾弾した。当然、ソーカルのこの意地の悪い行動は反発を招き、社会的に大論争を巻き起こした。これがいわゆる「ソーカル事件」である。

騒動後、ソーカルはパロディー論文を発表した意図は一部のポストモダニズム思想家による「数字や科学の粗雑な濫用」を告発するためであると主張し、それを具体的に解説するために『「知」の欺瞞』を発表する。

この本ではラカン、クリステヴァ、ドゥルーズなど、当時の代表的なポストモダニズム思想家が、どのように科学的概念や科学用語を濫用しているかについて、実例を挙げながら丁寧に解説している。一言で言うと、実に意地悪な本である。

専門用語が数多く出てくるが、これでもかッ!というくらいに脚注がついているので、数学や物理学の専門知識がなくても批判している論文の問題点がとてもよくわかる。もちろん、数学・物理学の専門知識がある人であれば、より面白く読むことができるであろう。ソーカルは一般の人にもわかりやすい文章で自身の主張を述べることにより、意図的に難解に書かれたポストモダニズムの論文に対する意趣返しをしているのだと感じた。

徹底的に相手をこき下ろすソーカルの姿勢は、人によっては意地悪く感じるかもしれない。ちなみに私は「科学的概念を通常の文脈と完全に離れて使うこと」に対するソーカルの怒りを感じながら痛快に読むことができた。(もしかしたら性格が悪いのかもしれない。)

ソーカルは学問に対し誠実であるからこそ「明快な思考と明晰な書き方を放棄すること」に対して強く憤りを感じ、そうした風潮が教育と文化に悪影響を及ぼすことを本気で懸念しているのだと思う。

人はなんだかんだ言いながら権威あるものに弱い。学会の権威だったり、その道のプロだったりする人が話す事は、あまり疑いを持たずに信じてしまいがちだ。

そのため、専門家があえて難解な言葉ばかりを使って自分の主張や研究を「知識のある人にしか理解できないハイレベルなもの」風に仕立てあげてしまうと、その内容に違和感を感じても、多くの人はそれを指摘することができない。裸の王様に「裸だ!」と言えなかった大臣や家来のように、全くわからないのにわかったふりをしてしまう。

裸の王様に自信をもって「裸だ!」と言えるようになるために、あるいは裸だと言えなくても本当は裸であると気がつくことができるようになるためにも、何事も盲目的に信じずに懐疑的な姿勢も持つようにしつつ、幅広い知識を身につけていくことが大切なのだと思う。

『ボッコちゃん』(新潮文庫)

海外のSF本が続いたので、今回は日本のSF本を紹介しようと思う。日本最初のSF同人誌の創刊に参画し、ショートショートという分野を開拓した日本のSFの草分け的存在、星新一の『ボッコちゃん』だ。

『ボッコちゃん』は表題となっている作品をはじめ「おーい でてこい」や「鏡」「不眠症」など、50編の短編小説が綴じられている。どの小説も一話あたり10ページ前後というごく短いストーリーだ。

ストーリーの舞台は近未来であるが、海外SF本に見られるようなハードボイルドな主人公や魅惑的なヒロインは登場しない。登場人物もエヌ氏だったり、エス氏だったりと適当な名前が多い。あえてキャラ立ちさせないことにより、狡さや残酷さ、滑稽さというものが人類共通のものであることを描き出しているのだ。

例えば「生活維持省」では犯罪や事故のない、人々が穏やかにのんびりと暮らす平和な未来が描かれている。皆が十分な広さの土地を持ち、あくせく働くことなく好きなことをして過ごせる理想的な社会だが、ストーリーの後半でその社会を維持するシステムが明らかになった時、なんとも言えない気持ちになる。

星新一の作品はどれもオチが衝撃的だ。昔話や説話のようにくすりと笑えるものもあるが、多くはぞくりとさせられる。今風な言い方をすると「イミコワ(意味がわかると怖い話)」というやつだ。つらつらと読んでいると最後の最後にパンチを食らう。落語みたいな小説だと思う。

個人的には「おーい でてこい」、「暑さ」、「鏡」、「生活維持省」あたりの最後にぞくりとする話が好き。

『夏への扉』(ハヤカワ文庫)

古典SFつながりでロバート・A・ハインラインの『夏への扉』をご紹介。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』よりもさらに古い作品で1957年に発表されたものである。小説の中で描かれる「未来の世界」が「紀元2000年」であることからもその古さが伝わるだろう。

ずば抜けた才能をもった発明家デイヴィスは、婚約者と親友にペテンにかけられ、発明品と会社の権利を奪われてしまう。最愛の二人に裏切られ絶望の淵に立っていた彼は、眠っている間に貯蓄が増える「冷凍睡眠保険」の広告を目にし、今ある苦悩を眠って忘れてしまおうと決意する。

30年後に目覚めたデイヴィスは、自分の頭の中にあった設計図を元に作られたようなロボット(製図機)を目にする。自分と全く同じ発想を持つこの発明家は一体誰なのかと調べてみると、それは自分自身であることが判明し愕然とする。この不可解な謎を解くため、デイヴィスは再び30年前の「あの日」に戻る決意をする。

冷凍睡眠とタイム・トラベルをベースとしたSF小説だが、個人的にはSF的要素をもったヒューマン・ドラマだと思っている。本格SFと言うには設定が甘く、全体的にご都合主義な部分が多い。タイム・パラドックスも生じており、ガチのSFファンの方には物足りないかもしれない。

しかし、自分の理想とする未来にたどり着くための道筋を解き明かし、過去に戻って入念な仕込みを行い、裏切った二人に一矢報いながら念願の「夏への扉」にたどり着くという復活劇は読んでいて実に爽快だ。

また、人に裏切られ絶望したデイヴィスが「なんど痛い目をみようとも、結局は人間を信用しなければなにもできないのではないか。」と再び人を信じた結果、明るい未来を勝ち取ることができたという人間ドラマは、王道だが読後感が良い。

最近、陰鬱なニュースが続き気が滅入る。だからこそ「誰がなんといおうと、世界は日に日に良くなりまさりつつあるのだ。」という強い信念を持ち「未来は、いずれにしろ過去にまさる。」と未来を前向きに捉える姿に希望を感じる。人を信じたいし、未来は明るいと信じたい…そんな気持ちに応えてくれる一冊だ。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房)

先日シド・ミード展で「ブレードランナー」の世界を見て懐かしくなり、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み直した。この本は「ブレードランナー」の原作とされる本である。ただ、原作といっても世界観と人物設定だけであり、ストーリーの構成や内容はだいぶ異なっている。なので映画の「ブレードランナー」をイメージして読むと違和感を感じる人も多いかもしれない。私も最初に読んだ時はデッカードの疲れたおじさんぶりと、冷酷なレイチェルにびっくりしたが、ストーリーの深さとテーマの重さは映画以上かもしれない。

舞台となっているのは、最終世界大戦後の放射能汚染された地球。死の灰の汚染により動物はほぼ絶滅し、人間の多くは植民地惑星へ移住してしまった。地球に残っているのは何かしらの未練がある者と移住を許されない「訳あり」な人間のみである。先の見えない暗い世界の中で、人々は「動物を飼うこと」と「共感ボックス」を使ったマーサーとの意識融合を心の支えに生きている。

主人公のデッカードは、そんな地球で電気羊を飼いながら、植民地惑星から脱走してきたアンドロイドを処理するバウンティ・ハンターとして暮らしている。アンドロイドを「それ」と呼び、何の躊躇もなく処理してきたデッカードだが、人間と区別がつかないほど精巧に造られたアンドロイドとの出会いや、嬉々としてアンドロイドを処理する同業者の所業を目の当たりにしたことにより、自分の仕事に疑念を持つようになる。

この作品は、人間とアンドロイドの境界線を描くことにより、人間とは何かということを問いかけている。その答えの鍵を握るのが「ブレードランナー」ではごっそり省かれていた「共感ボックス」と「マーサー教」である。

汚染された地球で、人間達は「共感ボックス」を使ってマーサーと喜びや悲しみを共有しあうことにより孤独を癒し、支え合って生きている。一方、アンドロイドは「共感ボックス」を使うことができない。アンドロイドには「感情移入」という機能がないためだ。

この作品では人間とアンドロイドの違いは「感情移入」ができるか、できないかにあるとされている。つまり、気持ちを共有し、それに寄り添うこと…相手を思いやることができるという点こそが、人間的特質であるとしている。そして思いやりの心を持たない存在は、例えそれが人の姿をしていたとしても、また生物学的的に人間であったとしても、社会にとって大きな脅威となると警告している。

思いやりの気持ちの薄れた殺伐とした社会の中で、SNSを拠り所にし、かわいいペットに癒しを求める…。死の灰こそ降ってはいないが、ディックの描いた未来像はあながち間違っていなかったのかもしれない。

『生誕の災厄』(紀伊国屋書店)

最近、自分の中で「哲学の世界を覗いてみようキャンペーン」を実施しており、あまり手を出さずにいた思想・哲学系の本を読んでいる。哲学系の本は内容が抽象的な上、一文がやたらに長いものが多いため、集中して読まないと前後の言葉の関係が理解できないものが多い。(特にカントとか…。)読んでは戻り、読んでは戻りを繰り返し、そのうち諦めてしまった本もある。(まあカントなんですけど…。)

そんな中、シオランの『生誕の災厄』は、隙間時間を使って読みやすい一冊だった。

この本は、自分の思惟を短い文章で言い切るアフォリズムと呼ばれる形式で書かれている。格言・名言集のような形で、イメージとしてはTwitterが近いと思う。そのため読みやすく、わかりやすいのだが、それ故にとても刺さる本だ。

エミール・シオランは、ルーマニア出身の思想家である。鬱的情動に悩まされていたこともあり、その思索は悲観的であり、ニヒリムズの色が強い。『生誕の災厄』も、そのタイトルからして攻撃的で、厭世観に満ちている。なぜこの本を読もうと思ったかというと、彼も私と同じく不眠症に悩まされていたからである。

孤独と絶望の中で、生まれてきたことを悲嘆し憤るシオランの痛な叫びが、読む人の精神を突き刺し、揺さぶる。そのため、読む人の年齢や性格、精神状態によって、その受け取り方は大きく異なってくると思う。不快極まりないと本を打ち捨てたくなる人もいるだろうし、「厨二病乙!」と冷笑する人もいるだろう。一方で、狂信的に傾倒してしまう人もいるだろうし、共感し、救われる人もいると思う。

私はというと、心がえぐられるような辛辣な言葉の断片の奥に、救済を求める祈りのようなものを感じ、うまく言えないが、愛おしく思った。生に対する呪詛をこれだけ並べ立てながらも、シオランは人間や生に対する愛があったのだと思う。むしろ、愛があったからこそ、これらの断章が生み出されたのだと思う。

<了解>しながら、なお生に止まることほど、欺瞞的な態度はない。

長生きをしすぎた人間は、自分でははっきりそれと認めずに、時にはそれと知らずに、おのれをさげすんでいるものだ。

そこまで自覚していながらも、シオランは自殺をせず、84歳で天寿を全うした。
生まれてきたことを心底呪い、欺瞞に満ちた人間社会に絶望しながらも、シオランは自分の人生を生き抜いたのである。
その事実に、私は救いを感じた。

最後に、私の好きな一節を紹介する。

前を見るな。後ろもみるな。恐れず悔いずに、おまえ自身の内部を見よ。過去や未来の奴隷となっているかぎり、誰にも自己のなかへ降りてゆくことはできない。

未来を憂いてもこれから起こることを予測することはできないし、過去を悔いても今更それを変えることもできない。
制御できるのは「今の自分」だけだ。
自己と対話し、今の自分を正面から受け入れた時に見えたものを大切にしたいと思った。

『おとうさんがいっぱい』(理論社)

少し前にTwitterで流行った「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグ。私は迷った結果、メルヴィルの『バートルビー』をあげたのだが(書評はこちら)、児童書であるにも関わらず三田村信行の『おとうさんがいっぱい』をあげている人が多いことを知った。

「子供の頃に読んでトラウマになった」、「大人になって読み返してもやっぱりこわかった」などの声が多く、気になったので調べてみたところ、なんともシュールな表紙の本が出てきたので思わず買ってしまった。

『おとうさんがいっぱい』には「ゆめであいましょう」、「どこへもゆけない道」、「ぼくは五階で」、「おとうさんがいっぱい」、「かべは知っていた」の5つの短編小説が収録されている。小学3〜4年生向けとのことで、いずれの小説も児童書的な言葉遣いや表現が使用されており、平易でわかりやすく、読みやすい。読みやすいが…確かに怖い。今まで出会ったことのないタイプの児童書だ。不条理で救いのない結末が、なんとも言えないざらりとした読後感を残す。

できれば子供の頃にこの本に出会いたかった。今までの人生の中で身につけてきた知識や経験がなければ、もっと純粋に衝撃と怖さを感じることができたかもしれない。なので、この本に興味をもった人は、下記の感想や、アマゾンのレビューなどを読まずに、とりあえず読んでみて欲しい。

ちょっとそれは怖い…という人はスクロールして、書評の続きをどうぞ。

『おとうさんがいっぱい』に収録されている5つの話全てが、少年とその両親という、家族の中での話になっている。読者である子供が自身を投影しやすいと言うのが一番の理由だと思うが、子供にとって最も身近な所にある社会が家族だから、という理由もあるだろう。

そして、いずれの話もテーマとなっているのが、自己存在の不確実性である。自分が認識している現実は自分だけにしかわからないし、その現実を認識している自分という存在も、自分の中にしかない。しかしながら普段私たちは、自分が認識している現実は他者も同じように認識しているものだと思い込んでいる。そうすることにより、他者も自分の存在を認識していると信じることができるからだ。

この本はそうした当たり前だと思っている認識に揺さぶりをかけてくる。本当に自分はここにいるのか、という自己の存在に対する疑念を囁きかけてくる。だから怖いのだ。この怖さはホラー的なものではなく、自分を失うことへの恐怖、ある意味「死」の恐怖に近い、根源的な怖さである。

最初の物語「ゆめであいましょう」では、「夢を見ている自分」と「夢の中の自分」との対比を用いて、自己存在の不確実性を描いている。個人的には、この話が一番怖かった。

ミキオは毎日夢を見る。夢にはいつも、どこかで見たことのある子供が出てきて、毎日少しずつ成長していく。子供が少年になった時、ミキオはその少年が自分自身であることに気がつく。驚くミキオに向かって夢の中の少年は「ぼくのちいさいときからぼくのゆめにあらわれてきたやつ。」と言う。

どちらが本当のミキオなのか、もしかしたら夢の中にいたのは自分の方だったのではないか。そうした疑念が湧き上がってきた瞬間、ミキオは目覚め、やはり夢であったと安堵する。しかし不安な気持ちは拭いきれず、しっかり自分の存在を確かめようと起き上がり、隣に寝ている<はず>のお父さんの方へそっと手をのばしたのだが…。

自分が見ている現実は、本当に現実なのか。視点を変えれば、全く違う世界が見えてくるのではないか。こうしたテーマは様々な文学作品でよく扱われているものだ。メルヴィルの『漂流船』も、見る者の立場や価値観によって現実は変わるということをテーマにした作品だ。児童書で言えば、ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』がある。

ヨシタケさんの本は怖くないのに、この本が怖いのはなぜか。佐々木マキさんの挿絵が怖いというのもあると思うが、何より社会の不条理さとそれに対する絶望感が盛り込まれている点に、その原因があると思う。

この社会にはどんなに頑張っても自分の力ではどうすることもできない事があること、人はみんな自分の都合の良いようにしか物事をみていないこと、自分がいなくなっても社会はつつがなく営まれていくこと。こうした人間社会の残酷さと絡めながら自己存在の不確実性を突きつけてくる点に、この本の怖さがある。児童書とは思えない、救いやフォローのない冷酷な結末に、読者は愕然とし、恐怖するのだ。

こんな風に書いているとトラウマしか生まない暗い本だと忌避されそうだが、決してそうではない。最後の物語「かべは知っていた」には、一筋の希望が見出せる。

「かべは知っていた」の最終ページで、主人公カズミは自ら一人で歩むことを決意する。父親が存在した証である「ゆい言」と「遺産」を手に、思い切って道を曲がり、ずんずん歩きながら思う。

いい天気だな。こんな日にゃあ、なんかいいことがきっと起こるぞ

不条理な社会の中で、不確実な自己を保ちながら絶望せずに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私はカズミの行動の中に、その問いの答えを見いだすことができた。

先にも書いた通り、私はこの本を子供の頃に読んでみたかった。だからななちにもできれば早いうちに読んでもらいたいと思っているが、それをやると押し付けになってしまう。

また、彼女の怖がりな性格を考えると、衝撃が強すぎてトラウマとなる可能性がある。一人で寝ることができなくなったり、一人で留守番できなくなったりするという後遺症がでてしまったりすると、私的にも困る。

なのでななちが自分から手に取り、読んでみようと思うまで気長に待つことにする。

もしかしたらずっと読まないかもしれないが…それはそれで良いと思っている。