『おとうさんがいっぱい』(理論社)

少し前にTwitterで流行った「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグ。私は迷った結果、メルヴィルの『バートルビー』をあげたのだが(書評はこちら)、児童書であるにも関わらず三田村信行の『おとうさんがいっぱい』をあげている人が多いことを知った。

「子供の頃に読んでトラウマになった」、「大人になって読み返してもやっぱりこわかった」などの声が多く、気になったので調べてみたところ、なんともシュールな表紙の本が出てきたので思わず買ってしまった。

『おとうさんがいっぱい』には「ゆめであいましょう」、「どこへもゆけない道」、「ぼくは五階で」、「おとうさんがいっぱい」、「かべは知っていた」の5つの短編小説が収録されている。小学3〜4年生向けとのことで、いずれの小説も児童書的な言葉遣いや表現が使用されており、平易でわかりやすく、読みやすい。読みやすいが…確かに怖い。今まで出会ったことのないタイプの児童書だ。不条理で救いのない結末が、なんとも言えないざらりとした読後感を残す。

できれば子供の頃にこの本に出会いたかった。今までの人生の中で身につけてきた知識や経験がなければ、もっと純粋に衝撃と怖さを感じることができたかもしれない。なので、この本に興味をもった人は、下記の感想や、アマゾンのレビューなどを読まずに、とりあえず読んでみて欲しい。

ちょっとそれは怖い…という人はスクロールして、書評の続きをどうぞ。

『おとうさんがいっぱい』に収録されている5つの話全てが、少年とその両親という、家族の中での話になっている。読者である子供が自身を投影しやすいと言うのが一番の理由だと思うが、子供にとって最も身近な所にある社会が家族だから、という理由もあるだろう。

そして、いずれの話もテーマとなっているのが、自己存在の不確実性である。自分が認識している現実は自分だけにしかわからないし、その現実を認識している自分という存在も、自分の中にしかない。しかしながら普段私たちは、自分が認識している現実は他者も同じように認識しているものだと思い込んでいる。そうすることにより、他者も自分の存在を認識していると信じることができるからだ。

この本はそうした当たり前だと思っている認識に揺さぶりをかけてくる。本当に自分はここにいるのか、という自己の存在に対する疑念を囁きかけてくる。だから怖いのだ。この怖さはホラー的なものではなく、自分を失うことへの恐怖、ある意味「死」の恐怖に近い、根源的な怖さである。

最初の物語「ゆめであいましょう」では、「夢を見ている自分」と「夢の中の自分」との対比を用いて、自己存在の不確実性を描いている。個人的には、この話が一番怖かった。

ミキオは毎日夢を見る。夢にはいつも、どこかで見たことのある子供が出てきて、毎日少しずつ成長していく。子供が少年になった時、ミキオはその少年が自分自身であることに気がつく。驚くミキオに向かって夢の中の少年は「ぼくのちいさいときからぼくのゆめにあらわれてきたやつ。」と言う。

どちらが本当のミキオなのか、もしかしたら夢の中にいたのは自分の方だったのではないか。そうした疑念が湧き上がってきた瞬間、ミキオは目覚め、やはり夢であったと安堵する。しかし不安な気持ちは拭いきれず、しっかり自分の存在を確かめようと起き上がり、隣に寝ている<はず>のお父さんの方へそっと手をのばしたのだが…。

自分が見ている現実は、本当に現実なのか。視点を変えれば、全く違う世界が見えてくるのではないか。こうしたテーマは様々な文学作品でよく扱われているものだ。メルヴィルの『漂流船』も、見る者の立場や価値観によって現実は変わるということをテーマにした作品だ。児童書で言えば、ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』がある。

ヨシタケさんの本は怖くないのに、この本が怖いのはなぜか。佐々木マキさんの挿絵が怖いというのもあると思うが、何より社会の不条理さとそれに対する絶望感が盛り込まれている点に、その原因があると思う。

この社会にはどんなに頑張っても自分の力ではどうすることもできない事があること、人はみんな自分の都合の良いようにしか物事をみていないこと、自分がいなくなっても社会はつつがなく営まれていくこと。こうした人間社会の残酷さと絡めながら自己存在の不確実性を突きつけてくる点に、この本の怖さがある。児童書とは思えない、救いやフォローのない冷酷な結末に、読者は愕然とし、恐怖するのだ。

こんな風に書いているとトラウマしか生まない暗い本だと忌避されそうだが、決してそうではない。最後の物語「かべは知っていた」には、一筋の希望が見出せる。

「かべは知っていた」の最終ページで、主人公カズミは自ら一人で歩むことを決意する。父親が存在した証である「ゆい言」と「遺産」を手に、思い切って道を曲がり、ずんずん歩きながら思う。

いい天気だな。こんな日にゃあ、なんかいいことがきっと起こるぞ

不条理な社会の中で、不確実な自己を保ちながら絶望せずに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私はカズミの行動の中に、その問いの答えを見いだすことができた。

先にも書いた通り、私はこの本を子供の頃に読んでみたかった。だからななちにもできれば早いうちに読んでもらいたいと思っているが、それをやると押し付けになってしまう。

また、彼女の怖がりな性格を考えると、衝撃が強すぎてトラウマとなる可能性がある。一人で寝ることができなくなったり、一人で留守番できなくなったりするという後遺症がでてしまったりすると、私的にも困る。

なのでななちが自分から手に取り、読んでみようと思うまで気長に待つことにする。

もしかしたらずっと読まないかもしれないが…それはそれで良いと思っている。

『ぼくは王さま』(理論社)

小学一年生の時、初めて図書室で借りたのがこの本だった。私が入学した小学校は、アラビアの僻地にある小さな日本人学校だったが、ちゃんと図書室というものがあった。びっしりと本が置かれたスチール棚が何台も並んでいる小さな部屋に入った時、たくさん本がある!全部読みたい!と感動したのを覚えている。

そして、見上げるような高さのスチール棚から『ぼくは王さま』を手に取り借りた。この本を選んだ理由は、背表紙のタイトルのレタリングが他の本と違っていて目を惹いたからだった。(このタイトルのレタリングは第2話の「しゃぼんだまのくびかざり」をイメージしたものだと思われる。)

どこの おうちにも
こんな 王さま
ひとり いるんですって

そんな前書きからはじまるこの本には「ぞうのたまごのたまごやき」「しゃぼんだまのくびかざり」「ウソとホントの宝石ばこ」「サーカスにはいった王さま」という4つのお話が収録されている。

主人公はたまごやきが大好きな王さまである。王さまはぞうのたまごのたまごやきが食べたいとか、しゃぼんだまの首飾りが欲しいとか、突飛なことを言っては大臣たちを振り回している。それに大変嘘つきだし、注射が嫌だからといってお城から逃げたしたりしてしまう臆病者でもある。子供の頃の私は、漠然と「だめな王だなあ」と思いつつも、やっぱり王さまがすきだった。

王さまは、しゃぼんだまの首飾りを手に入れるために汗水垂らして畑を耕す真面目なところがあるし、一生懸命作ったしゃぼんだまの首飾りを国民に配ってあげたりする優しさをもっている。嘘つきを見破る箱を使って、攻めてきたとなりの国の王様を退ける知恵をもっているし、無一文でお城を逃げ出した時にくすりを出してくれたくすり屋に、日銭を稼いでお金を払う義理堅さもある。

ダメな王様だが、どこか愛嬌があり憎めない。傲慢で自分勝手で無知だが、経験や学びによって、少しずつ成長していく。実に人間らしいと思う。おべっかを使う大臣も、適当な嘘でごまかす学者も、相手によって態度を変えるくすり屋も、私たちの周りでもよく見かけるタイプの人物ばかりだ。

欺瞞に満ちていると失望しつつも、時折垣間見える温かみや思いやりに救われ、やはり愛さずにはいられない…。王さまの国は、私たちの社会そのものなのかもしれない。

『ピーターラビットの絵本』(福音館書店)

先日ななちと映画『ピーターラビット』を見に行った。前に予告を見た時「これがピーターラビット??」とぎょっとしたのだが、ななちは面白そう!と興味津々で、公開したら行きたいとせがまれていたのだ。

映画では「たいへんないたずらっこ」のピーターは、「かなりのワル」に成長し、マクレガーおじいさんの甥っ子と壮絶なバトルを繰り広げていた。「今のピーターの『やったか?』のセリフは、明らかに『殺ったか?』だったよね?」と思うくらい、本気でマクレガー氏を倒しにいっていた。

基本的に『ホームアローン』のようなドタバタコメディーだが、ちょっぴりハートフルな要素もあったりする、実にハリウッドらしいピーターラビットだった。個人的にはCGだということを忘れてしまいそうになる、表情豊かで躍動感のある動物たちがとても印象的だった。

そんな訳で久しぶりの絵本紹介はビアトリクス・ポター作の『ピーターラビットの絵本』

この絵本の魅力は何と言ってもピーター達をはじめとする動物達の挿絵の美しさであろう。ピーターやその家族達は、洋服を着て買い物に行くなど擬人化されて描かれているにも関わらず、体の構造や毛の質感などはとても写実的でうさぎそのものだ。全くデフォルメせず、自然に擬人化しているという点が、ビアトリクス・ポターの絵の魅力だと思う。

ピータラビットの絵本は全24巻。第1集1巻目がピーターラビットのおはなし、2巻は映画にもピーターラビットの良き相棒として登場したいとこのベンジャミンバニーのおはなし、3巻目はピーターの妹フロプシーの子供達のおはなしが収録されている。

いずれのお話も、ピーター達がマクレガーさんに捕まりそうになりながらもなんとか逃げ出してくる、というストーリーであるが、1,2巻と3巻とではエンディングが異なっていることに気がついた。

ピーター達がマクレガーさんの畑の野菜を盗んで食べた1,2巻は、お腹を壊したり、お父さんにお尻を叩かれたりと、いずれもうさぎ達が罰を受ける結末になっている。しかし、ゴミ捨て場にあったレタスを食べていた子うさぎをマクレガーさんが捕まえた3巻は、うさぎ達に出し抜かれマクレガーさんが痛い目をみるという結末になっている。つまり、相手の生活領域を侵した方が罰を受ける、という形になっているのだ。

身近なところに野生のうさぎが生息していない日本では、うさぎは可愛いペットというイメージだが、イギリスの田園地帯ではうさぎは身近な野生動物だ。19世紀から20世紀にかけては、社会問題になるほどうさぎが増えすぎ、畑を荒らす害獣として駆除政策がとられていたらしい。

そんな時代に作られたピーターラビット。ビクトリアス・ポターはうさぎを愛らしく擬人化した作品に、お互いの生活領域を侵さず、共存していこうというメッセージを込めたのではないだろうか。

ハリネズミの願い(新潮社)

毎年難航する夏休みの読書感想文。この夏、ななちが課題本として選んだのが、トーン・テヘレンの『ハリネズミの願い』だ。十中八九、ハリネズミというだけで選んだのだろう。

秋のおわりが近づいてきたある日、ひとりぼっちのハリネズミが森のどうぶつ達を家に招こうと思い立つところからこの物語は始まる。

他のどうぶつたちは互いの家を尋ね合っているのに、ハリネズミの家にはだれもやってこない。自分が孤独なのは、だれもまだ一度も森のどうぶつを家に招待していないからだと考えたハリネズミは、森のどうぶつ達へ招待の手紙を書き始める。

しかしいざ手紙を書きはじめると、

あらゆるどうぶつが美味しいと思えるケーキなんて作れるのだろうか。
ハリネズミの家はつまらなかったと失望されるのではないか。
自分の快適な家を壊されるのではないか。

と様々な不安に襲われ、手紙を出すことができなくなってしまう。
頑張って招いたところで、自分が嫌な思いをするだけではないのか。そもそも自分は本当にどうぶつを招きたいと思っているのか…。

数日間、一人で逡巡し、思い悩み、ハリネズミが出した答えは「ぼくはだれにも訪ねてきてほしくはない」だった。

頭の中で悶々と後ろ向きな想像ばかりして、何の行動も起こせないハリネズミのことを臆病なコミュ障だと言ってしまえばそれまでだ。しかしながら、頭の中で繰り広げられる様々な訪問客とハリネズミのやりとりを読んで、身につまされる人は多いのではないだろうか。

怒ることが気持ちがよいと一人で怒っているヒキガエルに、一方的に自分のことばかり話して人の話を聞こうともしないキリン。部屋の中に勝手にお風呂を作って自己満足に浸る押し付けがましいカバ。そして「なんとなく」という理由でハリネズミの針をぬく暴力的なロブスター。ハリネズミが怖れるこれらの訪問者みたいな友達が、あなたの周りにもいたりしないだろうか。

一緒にいても全く楽しいと思えないけれど、仲間外れになるのが怖いから、我慢しながら友達づきあいをしている人は多いと思う。しかしハリネズミは、そんな思いをするくらいなら一人の方がずっとよいと孤独を選んだ。自分の心に正直な勇気のある決断だと思う。

自分を押し殺し、無理をしてまで友達なんか作らなくていい、そう決断したハリネズミの元に「なんとなく、ハリネズミが喜ぶかもしれないと思った」と、リスがふらりとやってくる。自分を偽るのをやめた時にこそ、自然に付き合うことのできる本当の友達に出会うことができる。二匹が仲良くお茶を楽しむラストシーンには、そんなメッセージが込められていると感じた。

『このあと どうしちゃおう』(ブロンズ新社)



『このあと どうしちゃおう』は、ヨシタケシンスケさんの最新作の絵本だ。思わずくすりと笑ってしまう突飛なストーリーを展開するヨシタケさんの絵本は、ふざけているように見えて、実はとても深いテーマを扱っている。この絵本のテーマは「死」だ。

亡くなったおじいちゃんが残したノート。そこには、死んだら行くであろうあの世の様子や、あの世でやりたい事がおもしろおかしく記されていた。「ぼく」はそのノートを読みながらあの世というものに思いを馳せ、やがて「おじいちゃんはほんとうは怖かったのかも…」ということに気がつく。

誰もが経験するけれど、誰もが知らない「死ぬ」という体験。人の死に対面することはあっても、自分が死を体験するのは自分が死ぬ時、ただ一度だけ。それゆえ、死んだらこの自我はどうなるのか、魂と呼ばれるものは存在するのか、あの世と呼ばれるものはあるのか…本当のところは誰にもわからない。

だからこそ、人は未知なる「死」という体験を恐れ、忌避する。このおじいちゃんのノートは、未知だから恐ろしく感じる「死」というものを、明るく楽しいものだと前向きに考える事で、いずれ訪れるその時の恐怖を軽減する、という役割を果たしている。そしてそれは、世界中に誕生した様々な宗教が果たしている役割と同じだと言えるだろう。死を恐れすぎる事はない。しかし、死後の世界がどうなっているかわからない以上、生きている「今」この瞬間を大切にしてほしい…そんなメッセージが込められているように感じた。

夏休み明け、新学期の始まるこの時期に、子供の自殺が多くなるという。思春期という、ただでさえ精神的に不安定なこの時期に、心が砕けれしまうくらい辛いことがあると「死」に救いを求めてしまうことがあるのかもしれない。しかし「死」はそのうち必ず訪れるものなのなのだから…できれば自らの手でそれを招くようなことはせず、別の逃げ道を選んでほしいと思う。

『はがぬけたらどうするの?』(フレーベル館)

抜けた歯を枕元に置いて寝ると、夜に妖精がやってきてプレゼントと取り替えてくれる…と言う話を友達から聞いて以来、歯が抜けるのを楽しみにしているななち。私は今まで聞いた事がなかったが、ヨーロッパの習慣に基づくものらしい。

日本は屋根や縁の下に投げる、ヨーロッパはプレゼントと取り替えてもらう。他の地域にも乳歯にまつわる習慣があるのかな…と調べていたら、ちょうど良い本を見つけた。『はがぬけたらどうするの?―せかいのこどもたちのはなし』という絵本だ。世界中の64の国や地域から集めた、乳歯に関する風習や言い伝えを紹介している。

絵本によると、ヨーロッパやアメリカでは、妖精やネズミにプレゼントに変えてもらうというのが主流であるのに対し、それ以外の地域では投げる、というのが多かった。例えば、エジプトやリビア、中近東では強い歯が生えるよう祈りながらおひさまに向かって投げるらしい。日差しが強い国らしい習慣だと思った。
また、日本のように下の歯は上に、上の歯は下に、と歯の生える方向に向かって投げるという風習は、中国、シンガポール、ベトナム、カンボジアなど、東アジアに特徴的なものだった。

他にも川に流したり、埋めたり、イヤリングやペンダントに加工する地域もあった。世界中の様々な国や地域で、子供たちの抜けた乳歯は、様々な形で祈りと祝福を受けている。環境や宗教、価値観は大きく違っていても、子供の健やかな成長を願う親の気持ちは世界共通なのかもしれないと感じた。

『ムーミン谷の11月』(岩波書店)

久しぶりの絵本レビューは『ムーミン谷の11月』。『ムーミン谷の彗星』と並んで好きな物語だ。『ムーミン谷の11月』は、ムーミンシリーズの最終話であり、『ムーミンパパ海へ行く』と対になっている物語である。

ムーミンパパの突然の思いつきにより、ムーミン一家はムーミン谷を飛び出し、灯台のある無人島で暮らし始める。(『ムーミンパパ海へ行く』)『ムーミン谷の11月』は、その間の谷の様子を描いた物語である。つまり、ムーミンシリーズでありながら、ムーミン一家が全くでてこない物語なのだ。

沈んだ気持ちになった時や不安な気持ちになった時に、自然と足が向くところ。それが、ムーミン一家の家だった。いつも迎え入れてくれる、心の拠り所となっていた存在を、何の前触れもなく失ってしまった、ムーミン谷の住人。誰もが動揺を隠せず、慰め合うように、共同生活を始めてみるものの、ムーミン一家がいた頃への憧憬が高まるばかりで、今の生活には不満しかない。そのため、住民同士の諍いも絶えない。

この物語に描かれているのは、大切な存在を失った深い喪失感だ。ムーミンシリーズ上、最も陰鬱な話だと思うし、とても子供向きの童話とは思えない。しかしながら、この物語に惹かれるのには理由がある。最後に救いがあるからだ。

喪失系の物語は「失ったものが戻り、みんなも元に戻りましたとさ。めでたしめでたし。」といった終わり方をするものが多いが、この物語は違う。最終的にムーミン一家は谷に帰ってくるのだが、住民達は、ムーミン一家が戻る前に、自分達自身で気持ちの折合いをつけ、立ち直って自分の家へと帰っていく。そこに救いがあるのだと私は感じる。

別れてしまった恋人、病気や事故で亡くなってしまった人、剥奪された名声など、現実の世界では、一度失ってしまったものを元どおりに取り戻すことは不可能だ。そのため「失ったものが戻ったので、元どおり」という結末はファンタジーであり、そこに現実的な救いはない。

しかしムーミン谷の住人は、喪失感や絶望と戦い、不満や不安をぶちまけながらも、最終的に自分達の力で立ち直っていく。この姿に、どんなに大きな喪失も、時間をかければ少しずつ埋めていくことが可能なのだという救いを見ることができるのだと思う。

心が疲れてしまった時、落ち込んでいる時に読むと、陰鬱なストーリーが沈んだ気持ちに寄り添ってくれ、最後には希望を与えてくれる。気持ちが落ち込んでいる時には、無理に元気になろうと頑張らなくていい。淡々と日々を過ごしていくうちに、自然にゆっくり回復していくから。この物語は、そう語りかけているような気がする。

『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)

テーブルの上に何気なく置いてある、一つのりんご。何の変哲もないりんごに見えるが、果たしてこれは、本当にりんごなのだろうか…少年の一つの小さな疑念から生み出された突拍子もない空想の世界に、子供達はお腹を抱えて大笑いするに違いない。

ユニークなイラストと、おもしろおかしい文章のおかげで、小さな子供でも簡単に笑いながら読めてしまう絵本だが、その根底には、深いテーマがある。それは、常識だと思っていることを疑ってみることにより、異なる視点から物事を見てみよう、ということだ。一つの価値観にとらわれず、多角的な視点を持つことの大切さを、この絵本は伝えているのだと思う。
最近、なんとなく感じている事だが、人の思考がどんどん均一化されてしまっているような気がする。

ネット掲示板やSNSにより、個人が簡単に自分の意見を発信できるようになった。「いいね!」ボタンやリツイートにより、相手に共感を伝え、同じ価値観を共有し、仲間意識を強めていく。それに連動するように、価値観や意見が異なる相手に対する許容範囲が、どんどん狭くなってきているような気がするのだ。

そのため「あいつは悪いやつだ」というレッテルが貼られてしまった人は、過去の実績も功績も全て否定され、社会的に再起不能になるまで徹底的にたたかれる。それだけでなく「悪いやつ」を擁護する人も「悪いやつ」と認定され、拒絶・攻撃の対象となる。それゆえ、異なる意見を持っていても口をつぐみ、みんなで声を揃えて「悪いやつ」を攻め立てる。最近のこうした風潮は、中世の魔女狩りに通じるような気がして、少し気持ちが悪い。

人間は複雑な精神構造を持つ動物で、多様性に富んでいる。国や地域によって価値観も文化も大きく異なるが、そのどれもが正解でその国の常識だ。だからこそ、共存のためには、柔軟で多角的な視点を持つことが大切だと思う。

『ぼくのニセモノをつくるには』(ブロンズ新社)



『りゆうがあります』や『ふまんがあります』のシリーズですっかりファンになったヨシタケシンスケさんの絵本を、学校の図書館で見つけたななちが借りてきた。

宿題やそうじなど、やりたくないことを押し付けるために「ぼくのニセモノ」を作ろうとロボットを買った小学三年生のけんた。ニセモノになりきるために「あなたのこと、くわしくおしえてください!」とロボットに頼まれたけんたは、自分の特徴を説明しながら「じぶんというもの」についての理解を深めていく。

好きなものや嫌いなもの、できることやできないことなどをロボットに向かって話していくうちに、「じぶんからみたじぶん」と「みんなからみたじぶん」の間に違いがあることや、家や学校など、他者との関係によって「じぶん」を使い分けていることに気がついていく。そしてその全てが「じぶん」であることを理解する…。

自己と他人の視点の違いに気づくようになると、その他人が持っているであろう自分のイメージに合わせて、自分を演じようとするようになる。今風に言うと「キャラ」というのだろうか。特に思春期以降、その傾向は強くなるようで、他人が期待するイメージに応えようと、キャラを演じ、疲れてしまったりする人も多いようだ。本当の自分はこんなじゃないのに…と。

しかし、そのキャラを演じなくてはと思い、演じ続けているのは他ならない自分だ。演じているキャラも、それを嫌だと思っている自分も、全て自分なのである。

この絵本の中で最も印象に残った一文が、けんたのおばあちゃんの言葉だ。おばあちゃんは、人間をそれぞれ形の違う「木のようなもの」だと例えた上で、木の種類のように、生まれつき決まっていて選べない部分もあるが、その木を育て、飾り付けしていくのは自分自身であると言っている。そして「木のおおきさとかはどうでもよくて じぶんの木を 気に入っているかどうかが いちばんだいじ」だと。

自分の中にあり、自分だけしか見ることのできない、たったひとつのじぶんの木。生まれてから今日までの時間や経験を糧に成長してきたその木を、しっかりと見つめ、全部を愛することができれば、キャラに悩まず、楽に生きることができるのかもしれない。

ヨシタケシンスケさんの絵本は、子供好きするおもしろおかしいネタに満ちているが、その奥にあるメッセージは深いので、子供も大人も楽しめるのだと思う。

『スプーンおばさんのぼうけん』(学習研究社)

私が子供のころテレビで放映していた「スプーンおばさん」が、最近夕方に再放送されていると知り、録画してななちと見ている。オープニングソングもエンディングソングも記憶の通りで、懐かしい。ななちに、多分図書館に原作の絵本があるから探してごらん、といったら早速図書館で『小さなスプーンおばさん』を見つけてを借りてきて読んでいた。

続編があるらしいけど、図書館にはないみたい…というので、続編『スプーンおばさんのぼうけん』を購入。池で水泳の練習をしたり、近所の男の子や女の子のために一肌ぬいだり、スキーの大会に出たりと、小さくなったおばさんは前作以上にアクティブに冒険をする。

突然ティースプーンくらいに小さくなってしまうという特異体質にも関わらず、おばさんはそれをすんなり受け入れ、動じず、その状況でできる限りのことをしようとする。しかも、そこに必死さはない。このどっしりと構えた安定感は、私の敬愛するムーミンママに通じるものがある。

スプーンおばさんの舞台も、ムーミンと同じく北欧…ヨーロッパ屈指の豪雪地帯である。昔、フィンランドに行った時、道端に停められた自動車が頭まで埋まっているのをみた。それも一台や二台ではない。どの車もこの雪じゃどうせ車走れないし…的なのりで置きっ放しになっているようだった。その大らかさにちょっと驚きつつも、なんかいいなあと感じた。

スプーンおばさんといい、ムーミンママといい、北欧の物語に出てくる女性は、どんなアクシデントが起こっても、動じたり、おろおろしたりせず、「あらあら」とその状況を受け入れ、マイペースに対応している。(そこに痺れるッ!憧れるッ!)冬場は雪に閉ざされてしまうような厳しい自然の中で暮らし、自然の力の偉大さと人間の力の限界を肌で感じているからからこそ、世の中何もかも思い通りにはいかないものだ…ということを悟っている、ということなのかもしれない。