私と鳥山作品
昨日の昼過ぎ、鳥山明先生の突然の訃報を聞き愕然とした。身内でも知り合いでもない一介の読者にすぎないのに、ものすごい喪失感を感じて自分でも驚いた。理由はおそらく鳥山先生の訃報を嘆く多くのファン同様、子供〜青春時代を鳥山作品と共に過ごしてきたからだと思う。
父の仕事の都合で3歳から8年間サウジアラビアで暮らしていたため、幼少期はあまり漫画やアニメを見ることができなかった。宗教(偶像崇拝禁止)の関係で、日本から漫画やビデオを持ち込むことが難しかったからだ。絵のない本や音だけのカセットテープは比較的持ち込みやすかったので、私たちの娯楽は専ら本とカセットテープ(当時はカセットテープで音声だけ聞くラジオドラマみたいなものがあった)がメインだった。
一番よく聞いていたのが、劇場版『Dr.スランプ アラレちゃん ハロー!不思議島』だった。なぜ親がDr.スランプを選んだのかはわからないが(おそらく当時流行っていたから)、親のこの選択により、初めて触れたアニメ作品が鳥山作品となった。
小学生の頃、夏休みに一時帰国した時にレストランで『DRAGON BALL』の単行本を読んだ。ものすごく面白くて夢中になって読んだのを覚えている。
その数年後、父の赴任期間が終了したので家族で帰国。何気なくつけたテレビでアニメの『DRAGON BALL』を見て、レストランで夢中で読んだあの漫画が『DRAGON BALL』であることを知り、その作者が小さい頃聞いていたアラレちゃんと同じであることを知る。それ以降、鳥山ワールドにどっぷりの青春時代が始まった。
小学生時代は水曜日は7時から『DRAGON BALL』に集中するために宿題を早く終わらせるんだといって全ての友達からの遊びの誘いを断っていた。お小遣いが入ると近所の東急ストアへ走り、カードダスを回した。
中学に入学してからは毎週ジャンプを購入するようになりジョジョも読み出したが、基本的にはDRAGON BALLが一番好きだった。修学旅行の恋話タイムでは「身長はベジータ以上でピッコロ未満がいい(キリッ!)」と大真面目に答えるという黒歴史を作った。
高校に入ってもその熱は冷めず、ゲーセンでのクレーンゲームでベジータ人形を取るために大枚を溶かすという経験をする。(以後クレーンゲームは封印した)勉強机の傍にはいつもジャンプがあり、大学受験シーズンに突入しても欠かさず読み続け、受験日当日も帰りの電車で読むためにジャンプを買ってから受験会場へ向かった。
大学に入学した年の5月、ジャンプでの連載が終了した。ショックではあったが大学での生活が忙しかったこともあり、落ち込むことなく自然に距離をとることができた。もちろん劇場版が公開された時は見に行ったし、アニメの新シリーズも見ていた。直近では昨年夏に『SAND LAND』を見た。(明朗快活&元気がもらえるストーリーで幼稚園生から大人まで楽しめる。)昔ほどどっぷりではないにしろ、現在に至るまで鳥山作品を愛し、新作がでるのを楽しみに暮らしていた。
そんな人生の相棒のような鳥山作品が終わってしまった。鳥山先生が亡くなっても作品はずっと残って消えることはないし、先生の意志を継ぐクリエイターが多くいることもわかってはいるが…。無限に広がり続けると思っていた宇宙がその膨張を止めてしまった、一つの世界が終わってしまった…そんな衝撃と寂しさがある。
昨日はSNSで訃報に関するコメントを読み漁り、勝手に共感しながら涙を流して1日を過ごした。このままでは良くないなと思い、今日は西平畑公園に残り桜を見にいった。
桜と菜の花を眺めながらの軽いハイキングでほどよく体を動かすことができた。お腹が空いてきたので、公園でおにぎりを食べる。ご飯を食べるとさらに元気が出てきて、せっかくなら上の絶景スポット、あぐりパーク嵯峨山苑まで行ってみようという気になった。おばあちゃんの話だと歩いて10分ということだったが急勾配な坂道が延々と続き、15分くらいかかった。
頑張って登った甲斐あり、絶景を楽しむことができた。園内を散策していると「ストレス解消の丘」というものがあった。メガホンが3つぶら下がっており、それを使って叫んで気持ちをスッキリさせようというものだ。夫に促されるままメガホンを手に取り、久しぶりに力一杯叫んだ。
「鳥山先生、ありがとうございました!!」
絶景に向かって心を込めて鳥山先生への感謝の気持ちを叫んだら鬱々としていた気持ちが晴れた。亀仙人のじっちゃんの教えの通り、これからもよく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休み、人生を面白おかしく、張り切って過ごしていこうと思う。
鳥山明先生のご冥福をお祈りいたします。
2024.3.10投稿