『バビロン』(講談社タイガ)
先日読んだ『タイタン』がとても面白かったので野﨑まどさんの他の作品も読んでみようと思い『バビロン』を読んでみた。
主人公は東京地検特捜部検事の正崎善。その名の示す通り「正義でありたい。善くありたい。」という理想を胸に検事の仕事に打ち込む真人間だ。製薬会社と大学が関与した臨床研究不正事件を追っていた正崎は、捜査の中で一枚の異様な書面を発見する。何千回何万回と、白い紙を埋め尽くすようにぎちぎちに書き込まれた「F」の文字とその上に固まった暗褐色の血痕。狂気を放つ書面の謎を追ううちに、正崎は政界に潜む巨悪の存在に気が付き、その陰謀を暴こうと立ち向かう。
おそらくサスペンス系だろうと思いつつも『タイタン』の時にこの作家さんの作品は読者の予想の斜め上をいくことを学んだので、おそらくただのサスペンスでは終わらないだろうというところまでは予想がついた。案の定、この『バビロン』シリーズはサスペンスの枠には納まらないものだった。
法廷ミステリ小説のような顔をして始まったシリーズ第1巻『バビロンⅠ-女-』は、ストーリー後半からポリティカル・フィクションの色が濃くなり、サイコホラーな結末で第2巻『バビロンⅡ-死-』へと続く。
『バビロンⅡ-死-』は、社会派小説の仮面を被ったサイコホラーといった感じで、読んでいる間中、嫌な予感というか得体の知れない不安を感じた。絶対に気持ちよく終わらないだろうなと予想していたが、想像以上の狂気を見せつけられ唖然とした。こんなに読後感の悪い本は初めてだった。このままでは眠ることができなかったので、午前1時を回っていたが第3巻『バビロンⅢ-終-』を読み始めた。それくらい第2巻の読後感は最悪だった。
『バビロンⅢ-終-』を開くと、いきなりアメリカ人が出てきて驚いた。やはりこの作家さんのストーリー展開は予測できない。そしてこの巻で展開されるのはミステリでもサスペンスでもなく「善とは何か」を問う哲学思索であった。
あまりにも第1巻、第2巻とは毛色が違うし、舞台も変わるし、おまけに主人公であるはずの正崎も影が薄いので、第3巻は期待外れだったという感想を持つ人も多いようだ。私としては、少し展開が強引だなと感じる部分もあるが、テーマを考えれば舞台が世界へと移るのは自然な流れであると感じた。先に『タイタン』を読んでいたことも影響しているのかもしれない。これは私個人の考えだが、この作家さんはそれぞれの作品の中で哲学思索を試みているのではないかと思う。
第1巻で「正義」は立ち位置や価値観によって異なるものであることを示し、第2巻では正義を規定する法律や価値観、社会的通念もまた変わりゆくものであることを示した。普遍的に思われる良識や道徳さえも、人間作り出した人間同士のルールである以上、国や時代が変わればそれにあわせて変化していく。
代表的な事例が同性愛だ。同性愛はカトリック教義上「自然に反するもの」として長年忌避されてきたが、現代社会では認められるようになりつつある。また最近だとBLM運動も挙げられる。新大陸の発見者としてその偉業を讃えられていた冒険者が、今では原住民を虐殺した侵略者として糾弾され、その像が叩き壊されている。
このように、正義をはじめ道徳や倫理といったもの全ては、人間が作り出したものである以上、人間によって改変されてしまう。普遍的に見えて実は流動的で不確実なものなのである。
だからといってそれらを意味がないものと否定してしまったら社会は崩壊してしまう。様々な思想・価値観をもつ人間が共に生きていくためには、どうしても法や道徳は必要だ。法や道徳の元になっているのは善悪の基準である。ならば普遍的な善悪の基準を見出すことができれば、世界中の人が納得する道徳や法律を作り出すことができるのではないか…第3巻ではそうした思考実験を行なっているのだと思う。
『バビロン』のテーマは「善とはなにか、悪とはなにか。」を問う哲学思索だ。それはプラトンやソクラテスの時代から延々と問われ続けてきた問いであり、未だ人類が共通の解を見つけることができない問いである。第3巻の最後に導き出された解も、一つの解ではあるが完全ではない。だからこそ問い続ける必要がある。
『バビロンⅢ-終-』というタイトルであるが、巻末には「つづく」とある。この「つづく」がシリーズとして続くことを意味しているのかはわからない。
抽象的な概念である「善」に比べると「悪」は生理的にも感じることができる分、わかりやすい。「善」と対立する関係にありながら「善」より大きく強い力を持っており、時には「善」を呑み込んでしまう。翻弄され、出し抜かれてばかりの正崎は、その正義をもって「悪」を仕留めることができるのだろうか。続編が出るのなら読んでみたい。
2020.7.21投稿