「ドラゴンボール復活のF」感想(一部ネタバレあり)
『ドラゴンボールZ 復活の「F」』を見てきた。前回の「神と神」の時は、一人で行く勇気がなくテレビで見たのだが、今回はフリーザ様が復活されるとのことで、ぜひ映画館で見たいと思っていた。そこで友達を口説き落とし(やはり、一人で行く勇気はなかった)、久々に映画館でのドラゴンボール鑑賞にこぎつけたのだ。
フリーザの復讐戦ということで、アクションシーンが多めだった。天津飯の気功砲、クリリンの気円斬、ピッコロの魔貫光殺法と、Z戦士達の必殺技が炸裂。中でも、今回は亀仙人のじっちゃんの本気モードがのかめはめ波が光っていた。(じっちゃん、やる時はやる男だった…。)若干パワーバランスがおかしいんじゃあないかとの声もあるらしいが、本気モードの亀仙人は元々こんなものだと作者本人が言っているので、そういうことでいいのだと思う。ベジータ様も、今回は美味しい役どころで個人的に嬉しかった。(前回の扱いがあんまりだったので、余計に嬉しかった。)
ウィスとビルス、そして銀河パトロールのジャコも登場し、所々でいい味を出していた。全体的に、ドラゴンボールは、基本的にはギャグ漫画なんだということを思い出させてくれるような仕上がりだった。
しかし、今回一番光っていたのは、やはり、フリーザだろう。映画公開前には、フリーザ様との握手イベントも開催されており、2000人が詰め掛けたというのだから、すごい人気だ。かくいう私も、今回、マキシマム・ザ・ホルモンの「F」をBGMに戦う、金ぴかのフリーザをちょっぴりかっこいいと思ってしまった。子供の時は全くそんなことは思わなかったのだが…年を重ねることにより、いろいろと価値観も変わってきた…ということなのかもしれない。(以下は若干ネタバレになるので、見てない人はご注意あれ…。)
フリーザの魅力は、中尾隆聖さん演ずる慇懃無礼な話し口調に拠るところも大きいが、やはり一番の魅力は「ブレない悪」ではないかと思う。ピッコロやベジータが戦いを経て、悟空たちと心を通わせるようになり、最終的にZ戦士という形で仲間になっていったのに対し、フリーザだけは決してまじらない。常に悟空の対極にある「悪の帝王」であり続けてる。
絶対悪であるから、平気な顔で、敵を謀り、どんな卑怯な手も使う。最初の戦いでも命乞いをしながら、背後から攻撃していたし、自分一人じゃ敵わないと解るとパパを連れて復讐にやってきた。そして今回も、手下を使って悟空を狙撃し、「闘いには勝ったのに、勝負で負けてしまったんですよ〜」と大喜び。「ズルして勝って、恥ずかしい」とは、全く思っていないのである。騎士道精神なんて皆無の、勝ちにこだわるこの姿勢は、カーズ様の「最終的に…勝てばよかろうなのだァァァァァッ!!」に通じるものがある。
世の中の多くの人は、騙したり、出し抜いたりすることに対して、多少なりとも後ろめたさを感じるものである。ところがフリーザやカーズには、そうした感覚が全くない。悪の方に振り切っており、その根性は「畑にすてられ、カビがはえて、ハエもたからねーかぼちゃみてえにくさりきってやがるぜーッ!!」といった感じなのだ。ここまで振り切れていると、かえって気持ちがいい。物語における悪役は、徹底して悪人であった方が、魅力が増すような気がする。
個人的に、ベジータが一番かっこ良かったのは、サイヤ人襲来の時だと思う。ラディッツをカス扱いし、役に立たないナッパを自らの手で始末する、冷酷無悲なところが魅力的だった。(その後、まるくなってしまい、ブルマと結婚したり、悟空と共闘するようになったことを、若干残念に思ってしまったのは私だけだろうか。)
人は、自分とは異なるものに惹かれる、という要素を少なからず持っている。それは、遺伝子の多様性を広める上で、必要なことであるわけだから、自然なことだと言えるだろう。それ故、自分とは異質な、「絶対悪」に惹かれる…という部分があるのかもしれない。つまり悪のカリスマ、「おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!そこにシビれる!あこがれるゥ!」ということだ。もちろん、実際にこんな人間がいたら、嫌悪感しかないだろう。誰しも、自分に害を及ぼす危険な存在は忌避するものだ。フィクションだとわかっているからこそ、フリーザの「絶対悪」を魅力と感じることができるのだと思う。
きまぐれ映画レビュー
2015.4.23投稿