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バラの季節に

先週末は父の納骨をした。亡くなってから一年以上経ったこの時期に納骨の日を設定したのは、母の気持ちに寄り添うためと、バラの季節を待つためだった。

膵臓ガンの手術が終わって落ち着いた頃、市内に新しくできた霊園のチラシを見た父が、この霊園は良さそうだから見に行こうと言い出した。無事に手術が終わったばかりなのにお墓を見に行くなんて縁起でもないと母は言ったが、頑固な父は言い出したら譲らず。二人で見に行ったところ、見晴らしが良く、バラが咲き誇る明るい庭園のような雰囲気に魅了され、乗り気でなかった母も「いいところね!」と快諾、その足で契約してきた。

父は花さしに大好きなバトミントンのラケットを、母は愛犬ルルぴんを模した石像を彫刻してもらうなど、二人で仲良くお墓作りに励んでいた。半年かけて建立したお墓は、二人のイメージ通りの仕上がりでとても喜んでいた。ただ一つイメージと違ってしまったのは、思った以上に早く墓誌に父の名前が刻まれてしまったことだ。

そのような流れから、納骨するのはバラの綺麗な5月と決めていたのが、3月に亡くなり5月に納骨ではあまりにも早すぎ、家にお骨がなくなるのは寂しいという母の気持ちを尊重し、1年後の5月にしようということになった。

私個人の感覚では、魂というものがあるのならば、それはもうお骨には宿っておらず、いつも母のそばに寄り添っていると思うし、父の生きた証は、私や弟、そしてななちの人格形成に大きく寄与したという形で残っていると思う。

火葬場から出てきた真っ白な遺骨を見た時「ああ、ここに父はいない。」と強く感じた。快活で大きな父が、こんな小さなカルシウムの塊になってしまったということにひどくショックを受けたのだ。ある意味、父の死をまだきちんと受け入れられていない、ということなのかもしれない。

一方母にとっては、父を感じることができるものが形として必要であり、それが遺骨だった。手元供養用に少し分骨したが、それでも全部あるのとないのとでは安心感が違うし、なにより暗いお墓の中に入れてしまうのが可哀想だと感じているようだった。

納骨の日が近づくにつれ気持ちが沈んで行く母の様子を見て、いっそのこともう納骨やめてしまおうかとも考えたが、前日には「二人で作り、その出来栄えにお父さんも大満足だったから…」と気持ちを切り替えてくれた。

そんな母の決意を父も喜んでくれたのか、納骨当日は穏やかな天気で、バラも美しく咲き乱れていた。叔父叔母、従兄弟も宮崎から駆けつけてくれ、和やかな雰囲気の中納骨式を終えることができてホッとした。

2018.5.29投稿

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