神宮前ギャラリー更新

神宮前ギャラリーに3月のイベント情報を追加。

失恋予報
開催期間:2019年3月21日(木)〜 3月26日(火)

切なさ満点のポートレイト写真作品が多数展示されます。展示作品を収めた写真集を販売予定。
3/23(土)には写真家藤里一郎氏とのトークイベントも開催。

そして、本日から20日までは、女子美工芸専攻の7人によるテキスタイル展「PATTERN RHYTHM」が開催されます。

チョコプリン

今年のバレンタインデーはななちと一緒にフォンダンショコラを作った。ただ「一緒に」と言っても、ななちがレシピを見ながら作るのを見守り、間違えそうになった時にアドバイスをする程度だったので、ほぼななち一人で作り上げたようなものだ。上手にできて夫も大喜び。ななちも自信をつけたようだ。

ななちの成長を見せることができたし、私も楽をさせてもらってよかったよかった…と思っていたら「ママは自分で作ったものをあげないの?私のと合同ですませちゃうの?」と言われてしまった。

なんか見透かされていたようでちょっと悔しかったので「それなら作ってやろーじゃないか」と奮起し、チョコプリンを作った。

<チョコプリン>

★材料(ココット5個分)

生クリーム:200cc
牛乳:60cc
チョコレート:75g
砂糖:20g
卵黄:3個分
ブランデー:適量

– トッピング用 -
トッピング
アーモンド:5粒
生クリーム:適量
ココア:少々

★作り方

1.チョコレートを刻み、オーブンを140度に余熱しておく。焼くときに天板に湯を張るのでお湯も沸かしておく。

2.生クリームと牛乳を火にかけ、吹きこぼれないように気をつけながら加熱する。沸騰したら刻んだチョコレートを入れて完全に煮溶かす。

3.大きめのボウルに卵黄と砂糖をボウルに入れ、白っぽくなるまで泡立て器で泡立てる。

4.白っぽくなったら、1を少しずつ加えながら混ぜ合わせる。

5.ブランデーを数滴加えて混ぜる。

6.こしながらココットに入れる。

7.湯を張った天板にココットを並べ、140℃のオーブンで30分蒸し焼きにする。

8.粗熱が取れたら冷蔵庫へ入れて冷やす。食べる前に生クリームを絞り、アーモンドを乗せ、茶こしを使ってココアを軽くふりかける。

当日でもぱぱっと作れて豪華に見えるのでオススメ。

『生誕の災厄』(紀伊国屋書店)

最近、自分の中で「哲学の世界を覗いてみようキャンペーン」を実施しており、あまり手を出さずにいた思想・哲学系の本を読んでいる。哲学系の本は内容が抽象的な上、一文がやたらに長いものが多いため、集中して読まないと前後の言葉の関係が理解できないものが多い。(特にカントとか…。)読んでは戻り、読んでは戻りを繰り返し、そのうち諦めてしまった本もある。(まあカントなんですけど…。)

そんな中、シオランの『生誕の災厄』は、隙間時間を使って読みやすい一冊だった。

この本は、自分の思惟を短い文章で言い切るアフォリズムと呼ばれる形式で書かれている。格言・名言集のような形で、イメージとしてはTwitterが近いと思う。そのため読みやすく、わかりやすいのだが、それ故にとても刺さる本だ。

エミール・シオランは、ルーマニア出身の思想家である。鬱的情動に悩まされていたこともあり、その思索は悲観的であり、ニヒリムズの色が強い。『生誕の災厄』も、そのタイトルからして攻撃的で、厭世観に満ちている。なぜこの本を読もうと思ったかというと、彼も私と同じく不眠症に悩まされていたからである。

孤独と絶望の中で、生まれてきたことを悲嘆し憤るシオランの痛な叫びが、読む人の精神を突き刺し、揺さぶる。そのため、読む人の年齢や性格、精神状態によって、その受け取り方は大きく異なってくると思う。不快極まりないと本を打ち捨てたくなる人もいるだろうし、「厨二病乙!」と冷笑する人もいるだろう。一方で、狂信的に傾倒してしまう人もいるだろうし、共感し、救われる人もいると思う。

私はというと、心がえぐられるような辛辣な言葉の断片の奥に、救済を求める祈りのようなものを感じ、うまく言えないが、愛おしく思った。生に対する呪詛をこれだけ並べ立てながらも、シオランは人間や生に対する愛があったのだと思う。むしろ、愛があったからこそ、これらの断章が生み出されたのだと思う。

<了解>しながら、なお生に止まることほど、欺瞞的な態度はない。

長生きをしすぎた人間は、自分でははっきりそれと認めずに、時にはそれと知らずに、おのれをさげすんでいるものだ。

そこまで自覚していながらも、シオランは自殺をせず、84歳で天寿を全うした。
生まれてきたことを心底呪い、欺瞞に満ちた人間社会に絶望しながらも、シオランは自分の人生を生き抜いたのである。
その事実に、私は救いを感じた。

最後に、私の好きな一節を紹介する。

前を見るな。後ろもみるな。恐れず悔いずに、おまえ自身の内部を見よ。過去や未来の奴隷となっているかぎり、誰にも自己のなかへ降りてゆくことはできない。

未来を憂いてもこれから起こることを予測することはできないし、過去を悔いても今更それを変えることもできない。
制御できるのは「今の自分」だけだ。
自己と対話し、今の自分を正面から受け入れた時に見えたものを大切にしたいと思った。

まめな更新が必要

ななちの中学校用のジャージを注文しにでかけた。ジャージだし、とりあえず標準サイズを注文しておけばいいだろうと思い単身で行ったら、背丈・身幅ともに色々なサイズがあるので試着し、今後の成長具合などを予測しながら選んだ方がよいと言われた。

そんな訳でななちを連れて出直したところ、ジャージの上はLサイズ、下は2Lサイズ、体育館ばきは24.5センチを買うことになった。私が思っていたよりも全てワンサイズ上だった。やはり試着してよかった。

玄関に並んだななちのローファーと私のパンプスを見ては、ああこのサイズなんだよな…と思うのだが、自分よりもななちの足のサイズが大きいと言う事が未だに信じられない。

最近のななちの成長スピードが早すぎて、自分の中のななちのイメージと実際の大きさにずれが生じがち…というのは日々感じていたが、思っている以上にずれているようだ。

ずれといえば、夏休みにななちと母と3人で出かけた時に「あら?ななちゃんはどこ?ついてきている?」と母が足元をキョロキョロしていた。「いや、さっきからお母さんの後ろにずーんと立っている大きいのがななちゃんだけど…。」と言って3人で笑った。

母の中では、未だに足元でちょこまか動いているななちのイメージが強いようだ。しょっちゅう会っているし、自分より大きくなったことも十分自覚しているはずなのに、無意識にふと思い描く姿は、小さな手をひいいていた、あの頃のイメージのままなのだろう。

夫にもそいういうところがある。休みの日に出かけてランチをする時、食事を大人3名分注文すると「え?そんなに食べられる?」といつも心配し、ななちが一人前を余裕で食べきるのをみる度に「ああ、そうだったよな…。」と納得する。でもやっぱり次に行く時も同じ心配をする。

親にとってはいつまでも小さい子供だが、子供は親が思っている以上のスピードで体も心も成長している。

意識して私の中の「ななち像」を更新していかないといけないなと思う。

Skypeアカウントの削除方法

今までSkypeのアカウントは削除方法がなく、使わなくなった場合は基本放置するしかなかった。しかしMicrosoft買収後は、Microsoftアカウントごと消すという方法でアカウントの削除が可能になったようだ。

Microsoftに買収される前に作成したSkypeアカウントはどうかというと、こちらも一旦Microsoftアカウント(捨てアカ用)に紐づけることにより、削除することができる。詳しい手順は以下のとおり。

1.Skypeにログインする
Skypeのサイトにアクセスし、プルダウンメニューからマイアカウントを選択。

サインインの画面になるので、SkypeIDをいれてログインする。

2.Microsoftにアカウントを追加する
スカイプにサインインした状態で、画面中央上にあるMicrosoftのロゴをタップし、Microsoftのページをひらく。

Microsoftのサイト右上にあるアカウント追加ボタンをタップする。

3.メールを追加し、本人確認を行う
メールの追加画面になるので、Microsoftに登録していない&今後Microsoftで使う予定もない、捨てアカ用のメールアドレスを入力する。

登録したメールアドレス宛にMicrosoftから「お使いのメールアドレスの確認」というタイトルのメールが届くので、そのメールを開き、「アドレスの確認」をタップ。ブラウザが開き、コードの入力画面が表示されるので、メールに記載されていたコードを入力する。

4.SkypeとMicrosoftアカウントの連携を確認する
Skypeアプリを立ち上げ、登録したメールアドレス今まで使用していたSkypeのパスワードの組み合わせでサインインしてみる。

プロフィールを開き、サインイン名=今回登録したアドレス、その下のSkype名=今までのSkype IDとなっていることを確認する。

Skype名の下の「メール」のアドレス(Skypeを作成した時に登録したメールアドレス)が、今回Microsoftに登録したものと異なっている場合は、このタイミングで変更しておく。登録メールアドレスは「設定」メニューの「アカウントとプロフィール」から変更できる。プロフィールのアイコン画像なども削除しておくと良いだろう。

5.削除手続きをはじめる

ここからようやく削除手続きがスタート。「設定」メニューの「アカウント&プロフィール」から一番下の「アカウントを終了(Microsoftアカウントを削除します)」をタップする。

6.本人確認を行う
Microsoftアカウントへとログインするよう促されるので、ログインし、上記3の手順でメール認証による本人確認を行う。

確認が済むと削除のための準備画面へと切り替わる。

7.削除により発生する内容を確認し、同意する

Microsoftアカウント削除をすると、Officeなどのアプリも全部使えなくなるよ?との確認がでるので、それら全てに同意し、チェックを入れる。

削除すると本当に全てのアプリが使えなくなるので、今開いているアカウントがSkype削除のために作成した捨てアカであることを必ず確認すること。

全ての条項に同意していくと、最後に削除理由を聞かれる。プルダウンメニューから理由を一つ選び「アカウントを削除する」をタップする。

これでようやく削除のための手続きは完了。ただし、60日間は保留期間としてアカウントは残っている。この期間内であれば再度ログイン&メール認証を行うことでアカウントは復活させることができる。

作るのは簡単なアカウント。しかし削除手続きは結構大変だったりする。安易にポンポン作るものじゃあないなあと反省。

私達の終活には、ネット・SNSアカウントの削除作業なんてのも含まれるようになるのだろう。仕事柄、いろんなアカウントを所有しているから気が重い。今から少しずつ、減らせるものは減らしておかなくては。

Microsoftアカウントを作ると勝手にSkypeアカウントが作成される件

Microsoftに買収されて以降、SkypeのアカウントはMicrosoftアカウントと連携するようになった。そのため、新たにSkypeアカウントを取得する際には、まずMicrosoftアカウントを取得する必要がある。(買収される前に発行したSkypeアカウントはそのまま使用可能。)

その事は知っていたのだが、Microsoftのアカウントを作成すると、自動的にSkypeのアカウントも作成されてしまうということに最近気がついた。きっかけは先日のこと。私のSkype上に「知り合いかもしれない人」として、ななちの実名アカウントが表示されたのである。何で??とびっくりして調べたら、ななちのPCをMicrosoftに登録した際に、Skypeのアカウントも自動的に作られていたとうことらしかった。

SkypeのIDは「live:マイクロソフトのアカウント名」で自動作成され、これは変更することができない。そしてSkypeのプロフィールにはMicrosoftアカウントに登録した情報が自動的に転載されるのだが、デフォルトの設定では、この情報がSkype ユーザーの誰からでも検索可能な「探しやすい設定」となっているようなのだ。そのため、私のアカウントに「知り合いかもしれない人」として提案されたようだ。

Skypeは使う予定がないからアカウントを削除したいと思っても、それはできない。Skypeのアカウントを消すには、連携されているMicrosoftのアカウントごと消さなくてはならないのだ。

そのため、Skypeを使う予定がなく、Skype上からアカウントを検出されたくない場合は、Skypeの「設定」メニューのプロフィールを編集し、ID検索に結果を表示しないようにしておくとよいだろう。

1.マイクロソフトのページから自分のアカウントにログインする

2.マイアカウント内「アカウント」メニューをタップする

3.「アカウント」メニューの一番上「あなたの情報」をタップする

4.プロフィール画面が表示されるので下の方にある「Skypeプロフィールに移動」をタップする

スカイプログイン画面に切り替わり、自動的にログインする。

5.Skypeの「プロフィール」ページが表示されるので、スクロールし、下の方にある「プロフィールを編集」ボタンをタップする

編集可能な部分はテキストボックス表示になるので、名前などを変えたい場合はここで変更し「保存」ボタンをタップ。
ただし、スカイプ名(ID)は変更する事はできない。

6.プロフィールの編集が終わったら「プロファイルの設定」メニューをタップ

7.「見つけやすさ」メニューの「検索結果に表示する」「推奨事項に表示する」のチェックを外す

このチェックを外しておくと、Skype上でIDやメールアドレスで検索されても検出されることはない。

企業の合併や買収により、個人の情報も共有して利用されるようになる。その結果、開示したつもりのない情報が知らないうちにネットに表示されていたり…なんてことが結構あるんだなと思った一件。気をつけなくては。

『おとうさんがいっぱい』(理論社)

少し前にTwitterで流行った「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグ。私は迷った結果、メルヴィルの『バートルビー』をあげたのだが(書評はこちら)、児童書であるにも関わらず三田村信行の『おとうさんがいっぱい』をあげている人が多いことを知った。

「子供の頃に読んでトラウマになった」、「大人になって読み返してもやっぱりこわかった」などの声が多く、気になったので調べてみたところ、なんともシュールな表紙の本が出てきたので思わず買ってしまった。

『おとうさんがいっぱい』には「ゆめであいましょう」、「どこへもゆけない道」、「ぼくは五階で」、「おとうさんがいっぱい」、「かべは知っていた」の5つの短編小説が収録されている。小学3〜4年生向けとのことで、いずれの小説も児童書的な言葉遣いや表現が使用されており、平易でわかりやすく、読みやすい。読みやすいが…確かに怖い。今まで出会ったことのないタイプの児童書だ。不条理で救いのない結末が、なんとも言えないざらりとした読後感を残す。

できれば子供の頃にこの本に出会いたかった。今までの人生の中で身につけてきた知識や経験がなければ、もっと純粋に衝撃と怖さを感じることができたかもしれない。なので、この本に興味をもった人は、下記の感想や、アマゾンのレビューなどを読まずに、とりあえず読んでみて欲しい。

ちょっとそれは怖い…という人はスクロールして、書評の続きをどうぞ。

『おとうさんがいっぱい』に収録されている5つの話全てが、少年とその両親という、家族の中での話になっている。読者である子供が自身を投影しやすいと言うのが一番の理由だと思うが、子供にとって最も身近な所にある社会が家族だから、という理由もあるだろう。

そして、いずれの話もテーマとなっているのが、自己存在の不確実性である。自分が認識している現実は自分だけにしかわからないし、その現実を認識している自分という存在も、自分の中にしかない。しかしながら普段私たちは、自分が認識している現実は他者も同じように認識しているものだと思い込んでいる。そうすることにより、他者も自分の存在を認識していると信じることができるからだ。

この本はそうした当たり前だと思っている認識に揺さぶりをかけてくる。本当に自分はここにいるのか、という自己の存在に対する疑念を囁きかけてくる。だから怖いのだ。この怖さはホラー的なものではなく、自分を失うことへの恐怖、ある意味「死」の恐怖に近い、根源的な怖さである。

最初の物語「ゆめであいましょう」では、「夢を見ている自分」と「夢の中の自分」との対比を用いて、自己存在の不確実性を描いている。個人的には、この話が一番怖かった。

ミキオは毎日夢を見る。夢にはいつも、どこかで見たことのある子供が出てきて、毎日少しずつ成長していく。子供が少年になった時、ミキオはその少年が自分自身であることに気がつく。驚くミキオに向かって夢の中の少年は「ぼくのちいさいときからぼくのゆめにあらわれてきたやつ。」と言う。

どちらが本当のミキオなのか、もしかしたら夢の中にいたのは自分の方だったのではないか。そうした疑念が湧き上がってきた瞬間、ミキオは目覚め、やはり夢であったと安堵する。しかし不安な気持ちは拭いきれず、しっかり自分の存在を確かめようと起き上がり、隣に寝ている<はず>のお父さんの方へそっと手をのばしたのだが…。

自分が見ている現実は、本当に現実なのか。視点を変えれば、全く違う世界が見えてくるのではないか。こうしたテーマは様々な文学作品でよく扱われているものだ。メルヴィルの『漂流船』も、見る者の立場や価値観によって現実は変わるということをテーマにした作品だ。児童書で言えば、ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』がある。

ヨシタケさんの本は怖くないのに、この本が怖いのはなぜか。佐々木マキさんの挿絵が怖いというのもあると思うが、何より社会の不条理さとそれに対する絶望感が盛り込まれている点に、その原因があると思う。

この社会にはどんなに頑張っても自分の力ではどうすることもできない事があること、人はみんな自分の都合の良いようにしか物事をみていないこと、自分がいなくなっても社会はつつがなく営まれていくこと。こうした人間社会の残酷さと絡めながら自己存在の不確実性を突きつけてくる点に、この本の怖さがある。児童書とは思えない、救いやフォローのない冷酷な結末に、読者は愕然とし、恐怖するのだ。

こんな風に書いているとトラウマしか生まない暗い本だと忌避されそうだが、決してそうではない。最後の物語「かべは知っていた」には、一筋の希望が見出せる。

「かべは知っていた」の最終ページで、主人公カズミは自ら一人で歩むことを決意する。父親が存在した証である「ゆい言」と「遺産」を手に、思い切って道を曲がり、ずんずん歩きながら思う。

いい天気だな。こんな日にゃあ、なんかいいことがきっと起こるぞ

不条理な社会の中で、不確実な自己を保ちながら絶望せずに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私はカズミの行動の中に、その問いの答えを見いだすことができた。

先にも書いた通り、私はこの本を子供の頃に読んでみたかった。だからななちにもできれば早いうちに読んでもらいたいと思っているが、それをやると押し付けになってしまう。

また、彼女の怖がりな性格を考えると、衝撃が強すぎてトラウマとなる可能性がある。一人で寝ることができなくなったり、一人で留守番できなくなったりするという後遺症がでてしまったりすると、私的にも困る。

なのでななちが自分から手に取り、読んでみようと思うまで気長に待つことにする。

もしかしたらずっと読まないかもしれないが…それはそれで良いと思っている。

『バートルビー』(光文社)

Twitterで「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグが流れてきた。私だったら何をあげるか…。ぱっと思いついたのはカフカの『変身』だ。私は本を読む時、文字を辿りながら頭でその言葉を映像化して読み進めていくタイプなので、頭の中に描かれる巨大な毒虫と不気味な情景(勝手に映像化されてしまうので制御不能)に「ヒィィィ!」となりながら読んだ。

江戸川乱歩の『人間椅子』も怖かった。しかしこれはどちらかというと気持ち悪いという感情の方が強かった。

どちらの本も怖かったが「今まで読んだ中で一番」とまではいかない。色々悩んだ結果、不気味とか気持ち悪いとかそういったものではない怖さを感じた本があるので、それをあげることにした。メルヴィルの『バートルビー』である。

ウォール街で法律事務所を営む弁護士が、一人の若い男を書記として雇った。哀れなほど礼儀正しく、孤独な姿をしたバートルビーは、異常なほどの分量の筆写を行なうが、弁護士が筆写以外の仕事を頼むと「わたくしはしない方がいいと思います」と穏やかな声で断る。

拒絶は次第にひどくなり、やがて彼はすべての仕事を断るようになった。弁護士は怒ったり、なだめたりしてどうにか仕事をさせようとするが、バートルビーは静かに「しない方がいいと思います」と拒否する。たまりかねた弁護士はバートルビーを事務所から追い出そうとするが「出ていかない方がいいと思います」とだけ言い、留まり続ける。

万策尽きた弁護士は「私の方が彼の許を離れるしかない」と、バートルビーを残したまま事務所を出ていく。後日、警察により「墓場」と呼ばれる刑務所に収監されたバートルビーは、食事も「しない方がよい」と拒絶し、死んでしまう。

正直、最初に読んだ時は意味がよくわからなかった。バートルビーの言っていることも、その行動も、理解不能だった。「え?なんで?」「何がしたいの??」と頭の中はクエスチョンマークだらけで、バートルビーに翻弄される弁護士そのものだった。バートルビーは狂人だったのか。この話は、単なる社会不適合者の話だったのか。

バートルビーが繰り返す「わたくしはしない方がいいと思います」という言葉には不思議な力がある。「したくない」あるいは「したい」といった断定の形でもなく、「した方がよい」という、選択を推奨する形でもない。意志を表す言葉としては控えめな部類に入るのに、強い拒絶が感じられる。

バートルビーはどうして「しない方がいい」と繰り返し、全ての事を拒絶したのか。
それをなんとか理解したくて、時間をかけて、繰り返し読んだ。まだ完璧に消化した訳ではないが、現段階での解釈を書いてみる。

働くことを拒絶するバートルビーを弁護士が追い出そうとしたのはなぜか。それは他の仲間達も仕事を拒絶し始める可能性があるからだ。事務所にいる時は働くという、あたりまえのルール。それを破る者が一人でもいると、ルールの存続が危うくなってしまう。だから弁護士は自分の前からバートルビーを消したかったのである。

しかし弁護士は、居座り続けるバートルビーを自ら警察に引き渡すことはせず、最終的には自分の方が出ていくという形をとった。慈悲深いキリスト教徒でありたいと思っている弁護士は、ただ働かないというだけの、罪のない青白い男を警察に引き渡すことに罪悪感を感じたのだ。

それはつまり、働いて家賃を払わないことが罪となる社会に対して少しは疑念を持っていた、ということだ。バートルビーと接することによってその疑念が広がり、自分の常識や価値観を侵食してしまうと感じたので、弁護士は彼の前から逃げ出したのではないだろうか。社会の常識から逸脱した行動を繰り返すバートルビーは、自分の生きている社会を、勤労を美徳とする資本主義的な価値観の社会を破壊しかねない存在だと悟り、恐れを感じたのではないか。

結果的にバートルビーは、権力によって強制的に刑務所に収監されてしまう。家賃を払わずに住み続けることは社会のルールに反しており、ルールを破った者は、罰せられなければならない。そうしなければ、みんながルールを守らなくなり、社会が乱れてしまうからだ。

だがもし、そのルール自体が間違っているとしたらどうだろう。「常識」と呼ばれる暗黙のルールは、本当にいつも正しいのだろうか。「ずっと続いているから」「みんなそうしているから」という理由だけで、疑念を持たずに盲目的に従うことは間違ってはいないだろうか。

不条理で理解しがたい存在にふれることにより、何の疑念も持っていなかった自分の中の常識や価値観に揺さぶりをかけられる。だから私は『バートルビー』に言い様のない怖さを感じる。

中吉!

今日は初詣に出かけた。天気も良く、神社も初詣のピークを過ぎていたのでそんなに混んでもなく、ゆっくり参拝できた。

毎年恒例のおみくじ。今年は中吉が出た。ずっと末吉続きだったので、嬉しい。ここのおみくじは和歌で運勢を詠みあげてくれるのが素敵だ。

風水とか占いといったスピリチュアル系は基本的に信じていないのだが、年始のおみくじだけはなんとなく気にしてしまう。気にするくらいならやらなきゃいいのだろうが、ついついひいてしまう。何故だろう。

予測できない未来に人は不安を感じ、その不安を解消してくれるような強い導きを求める。そうした心理が占いや信仰、思想などを生み出し、支えている。冷ややかにそう思いながらも、中吉おみくじは大切に財布にしまう私…。