『おとうさんがいっぱい』(理論社)
少し前にTwitterで流行った「#今まで読んだ中で一番こわい短編小説」というタグ。私は迷った結果、メルヴィルの『バートルビー』をあげたのだが(書評はこちら)、児童書であるにも関わらず三田村信行の『おとうさんがいっぱい』をあげている人が多いことを知った。
「子供の頃に読んでトラウマになった」、「大人になって読み返してもやっぱりこわかった」などの声が多く、気になったので調べてみたところ、なんともシュールな表紙の本が出てきたので思わず買ってしまった。
『おとうさんがいっぱい』には「ゆめであいましょう」、「どこへもゆけない道」、「ぼくは五階で」、「おとうさんがいっぱい」、「かべは知っていた」の5つの短編小説が収録されている。小学3〜4年生向けとのことで、いずれの小説も児童書的な言葉遣いや表現が使用されており、平易でわかりやすく、読みやすい。読みやすいが…確かに怖い。今まで出会ったことのないタイプの児童書だ。不条理で救いのない結末が、なんとも言えないざらりとした読後感を残す。
できれば子供の頃にこの本に出会いたかった。今までの人生の中で身につけてきた知識や経験がなければ、もっと純粋に衝撃と怖さを感じることができたかもしれない。なので、この本に興味をもった人は、下記の感想や、アマゾンのレビューなどを読まずに、とりあえず読んでみて欲しい。
ちょっとそれは怖い…という人はスクロールして、書評の続きをどうぞ。
『おとうさんがいっぱい』に収録されている5つの話全てが、少年とその両親という、家族の中での話になっている。読者である子供が自身を投影しやすいと言うのが一番の理由だと思うが、子供にとって最も身近な所にある社会が家族だから、という理由もあるだろう。
そして、いずれの話もテーマとなっているのが、自己存在の不確実性である。自分が認識している現実は自分だけにしかわからないし、その現実を認識している自分という存在も、自分の中にしかない。しかしながら普段私たちは、自分が認識している現実は他者も同じように認識しているものだと思い込んでいる。そうすることにより、他者も自分の存在を認識していると信じることができるからだ。
この本はそうした当たり前だと思っている認識に揺さぶりをかけてくる。本当に自分はここにいるのか、という自己の存在に対する疑念を囁きかけてくる。だから怖いのだ。この怖さはホラー的なものではなく、自分を失うことへの恐怖、ある意味「死」の恐怖に近い、根源的な怖さである。
最初の物語「ゆめであいましょう」では、「夢を見ている自分」と「夢の中の自分」との対比を用いて、自己存在の不確実性を描いている。個人的には、この話が一番怖かった。
ミキオは毎日夢を見る。夢にはいつも、どこかで見たことのある子供が出てきて、毎日少しずつ成長していく。子供が少年になった時、ミキオはその少年が自分自身であることに気がつく。驚くミキオに向かって夢の中の少年は「ぼくのちいさいときからぼくのゆめにあらわれてきたやつ。」と言う。
どちらが本当のミキオなのか、もしかしたら夢の中にいたのは自分の方だったのではないか。そうした疑念が湧き上がってきた瞬間、ミキオは目覚め、やはり夢であったと安堵する。しかし不安な気持ちは拭いきれず、しっかり自分の存在を確かめようと起き上がり、隣に寝ている<はず>のお父さんの方へそっと手をのばしたのだが…。
自分が見ている現実は、本当に現実なのか。視点を変えれば、全く違う世界が見えてくるのではないか。こうしたテーマは様々な文学作品でよく扱われているものだ。メルヴィルの『漂流船』も、見る者の立場や価値観によって現実は変わるということをテーマにした作品だ。児童書で言えば、ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』がある。
ヨシタケさんの本は怖くないのに、この本が怖いのはなぜか。佐々木マキさんの挿絵が怖いというのもあると思うが、何より社会の不条理さとそれに対する絶望感が盛り込まれている点に、その原因があると思う。
この社会にはどんなに頑張っても自分の力ではどうすることもできない事があること、人はみんな自分の都合の良いようにしか物事をみていないこと、自分がいなくなっても社会はつつがなく営まれていくこと。こうした人間社会の残酷さと絡めながら自己存在の不確実性を突きつけてくる点に、この本の怖さがある。児童書とは思えない、救いやフォローのない冷酷な結末に、読者は愕然とし、恐怖するのだ。
こんな風に書いているとトラウマしか生まない暗い本だと忌避されそうだが、決してそうではない。最後の物語「かべは知っていた」には、一筋の希望が見出せる。
「かべは知っていた」の最終ページで、主人公カズミは自ら一人で歩むことを決意する。父親が存在した証である「ゆい言」と「遺産」を手に、思い切って道を曲がり、ずんずん歩きながら思う。
いい天気だな。こんな日にゃあ、なんかいいことがきっと起こるぞ
不条理な社会の中で、不確実な自己を保ちながら絶望せずに生きていくためにはどうしたらよいのだろう。私はカズミの行動の中に、その問いの答えを見いだすことができた。
先にも書いた通り、私はこの本を子供の頃に読んでみたかった。だからななちにもできれば早いうちに読んでもらいたいと思っているが、それをやると押し付けになってしまう。
また、彼女の怖がりな性格を考えると、衝撃が強すぎてトラウマとなる可能性がある。一人で寝ることができなくなったり、一人で留守番できなくなったりするという後遺症がでてしまったりすると、私的にも困る。
なのでななちが自分から手に取り、読んでみようと思うまで気長に待つことにする。
もしかしたらずっと読まないかもしれないが…それはそれで良いと思っている。
2019.1.23投稿