ハリネズミの願い(新潮社)

毎年難航する夏休みの読書感想文。この夏、ななちが課題本として選んだのが、トーン・テヘレンの『ハリネズミの願い』だ。十中八九、ハリネズミというだけで選んだのだろう。

秋のおわりが近づいてきたある日、ひとりぼっちのハリネズミが森のどうぶつ達を家に招こうと思い立つところからこの物語は始まる。

他のどうぶつたちは互いの家を尋ね合っているのに、ハリネズミの家にはだれもやってこない。自分が孤独なのは、だれもまだ一度も森のどうぶつを家に招待していないからだと考えたハリネズミは、森のどうぶつ達へ招待の手紙を書き始める。

しかしいざ手紙を書きはじめると、

あらゆるどうぶつが美味しいと思えるケーキなんて作れるのだろうか。
ハリネズミの家はつまらなかったと失望されるのではないか。
自分の快適な家を壊されるのではないか。

と様々な不安に襲われ、手紙を出すことができなくなってしまう。
頑張って招いたところで、自分が嫌な思いをするだけではないのか。そもそも自分は本当にどうぶつを招きたいと思っているのか…。

数日間、一人で逡巡し、思い悩み、ハリネズミが出した答えは「ぼくはだれにも訪ねてきてほしくはない」だった。

頭の中で悶々と後ろ向きな想像ばかりして、何の行動も起こせないハリネズミのことを臆病なコミュ障だと言ってしまえばそれまでだ。しかしながら、頭の中で繰り広げられる様々な訪問客とハリネズミのやりとりを読んで、身につまされる人は多いのではないだろうか。

怒ることが気持ちがよいと一人で怒っているヒキガエルに、一方的に自分のことばかり話して人の話を聞こうともしないキリン。部屋の中に勝手にお風呂を作って自己満足に浸る押し付けがましいカバ。そして「なんとなく」という理由でハリネズミの針をぬく暴力的なロブスター。ハリネズミが怖れるこれらの訪問者みたいな友達が、あなたの周りにもいたりしないだろうか。

一緒にいても全く楽しいと思えないけれど、仲間外れになるのが怖いから、我慢しながら友達づきあいをしている人は多いと思う。しかしハリネズミは、そんな思いをするくらいなら一人の方がずっとよいと孤独を選んだ。自分の心に正直な勇気のある決断だと思う。

自分を押し殺し、無理をしてまで友達なんか作らなくていい、そう決断したハリネズミの元に「なんとなく、ハリネズミが喜ぶかもしれないと思った」と、リスがふらりとやってくる。自分を偽るのをやめた時にこそ、自然に付き合うことのできる本当の友達に出会うことができる。二匹が仲良くお茶を楽しむラストシーンには、そんなメッセージが込められていると感じた。

わたしたちの古典『百人一首』(学校図書)

昨年末に夫が、朗詠CD付きの小倉百人一首を買ってきてくれた。CDが句を詠んでくれるため、3人で対戦ができるものである。そんな訳で、このお正月は、家族で百人一首にハマっていた。

子供の頃は結構覚えていたので、それなりに自信があったのだが、思っていた以上に忘れてしまっていた。そんな訳で、学校でリアルタイムに友達とやっているななちと、安定的になんでもこなす夫に圧倒され、一人惨敗…。上の句の状態でバンバンとられてしまうので、勝ち目がない。

昔はできたのに…!と言っても二人とも信じてくれるわけもなく…悔しい。悔しいのでちょっと勉強してやることにした。

とりあえず手にとって読み始めたのが、夫がななちのために買ってきた学習漫画的な本、学校図書のコミックストーリー「わたしたちの古典」シリーズの『百人一首』である。時代を感じさせる少女漫画的なタッチのイラストがなんだか懐かしい。しかし、内容は充実していると思った。うたの内容はもちろん、そのうたが詠まれた情景も漫画で説明してくれている。

百人一首の大半を占めるのが、おこちゃまにはわかりにくい恋愛の歌である。ゆれうごく微妙な乙女心や悩める男心など、言葉では説明しにくい気持ちも、漫画を通せば視覚的に伝えることができる。うたの意味が理解できると、上の句、下の句のつながりも自然に覚えることができるようになり…札がとれるようになる。

この本を読破した後の試合では、ななちに5枚差にまで迫ることができた。昔覚えていたから、それを思い出せるようになった…というのもあると思うが、最初は10枚程度しかとれなかったのが、ななち並みにとれるようになったのだからかなり効果はあったと言えるだろう。(私に負けられないとななちも必死に読み始めた。)

おすすめ児童書:『ドリトル先生』(岩波書店)

今年ななちが一番ハマって読んだ本が、動物と話ができる獣医のドリトル先生が、動物達と共に様々な冒険をする物語『ドリトル先生』シリーズだ。

子供の頃に読んだ時には、私もななちと同じく、オウムや犬、サル、ブタ、ワニに至るまで、いろいろな動物と自由に話ができるドリトル先生ってすごい!という純粋な憧れしかなかったが、大人になった今、改めて読み返してみると、当時は見えなかった色々なものが見えてくる。

「ドリトル先生」の名前は、井伏鱒二氏がこの物語を翻訳した際につけた名前であり、原文では「Dr. Dolittle」と表記されている。つまりdo little…なまけ者の医者、ヤブ医者という意味が込められているのだ。このことからも、ドリトル先生は、元々、一癖ある人物として設定されていると言えるだろう。

ドリトル先生は、動物への愛情は深く、義理堅い善人ではあるのだが、動物達が心配するくらい、お金に執着がない。むしろ「金がないと、何も手に入れることができない」人間社会というものを嫌悪している。「金払いのよい人間よりも、動物のほうが、かわいい」と断言し、実の妹にも愛想を尽かされ出て行かれてしまうほどだ。

少年のような純粋さゆえ、ともすれば社会生活不適合者となりかねないドリトル先生を社会につなぎとめているのは、現実的で賢いオウムのポリネシアを筆頭とする動物達だ。動物達は、金がなくては生きることさえ難しい人間社会を「奇妙なもの」としながらも、敬愛するドリトル先生のために、知恵を絞り、自分達ができることをして先生をフォローしようとする。真正直なドリトル先生に対し、生きていくためには金を稼ぐ必要があり、時には人を出し抜いたりすることも必要だと説くその姿は、ある意味ドリトル先生よりも人間臭い。

動物達のためなら、現実や我が身を顧みず助けてやろうとする善意の塊のようなドリトル先生と、その先生を敬愛しながらも、現実的な視点に立ち、先生をフォローする個性豊かな動物達。彼らが織りなすドタバタ冒険物語が描いているのは…人間社会の世知辛さと温かみ、そのものなのではないだろうか。

おすすめ児童書:『スプーンおばさんのぼうけん』(学習研究社)

私が子供のころテレビで放映していた「スプーンおばさん」が、最近夕方に再放送されていると知り、録画してななちと見ている。オープニングソングもエンディングソングも記憶の通りで、懐かしい。ななちに、多分図書館に原作の絵本があるから探してごらん、といったら早速図書館で『小さなスプーンおばさん』を見つけてを借りてきて読んでいた。

続編があるらしいけど、図書館にはないみたい…というので、続編『スプーンおばさんのぼうけん』を購入。池で水泳の練習をしたり、近所の男の子や女の子のために一肌ぬいだり、スキーの大会に出たりと、小さくなったおばさんは前作以上にアクティブに冒険をする。

突然ティースプーンくらいに小さくなってしまうという特異体質にも関わらず、おばさんはそれをすんなり受け入れ、動じず、その状況でできる限りのことをしようとする。しかも、そこに必死さはない。このどっしりと構えた安定感は、私の敬愛するムーミンママに通じるものがある。

スプーンおばさんの舞台も、ムーミンと同じく北欧…ヨーロッパ屈指の豪雪地帯である。昔、フィンランドに行った時、道端に停められた自動車が頭まで埋まっているのをみた。それも一台や二台ではない。どの車もこの雪じゃどうせ車走れないし…的なのりで置きっ放しになっているようだった。その大らかさにちょっと驚きつつも、なんかいいなあと感じた。

スプーンおばさんといい、ムーミンママといい、北欧の物語に出てくる女性は、どんなアクシデントが起こっても、動じたり、おろおろしたりせず、「あらあら」とその状況を受け入れ、マイペースに対応している。(そこに痺れるッ!憧れるッ!)冬場は雪に閉ざされてしまうような厳しい自然の中で暮らし、自然の力の偉大さと人間の力の限界を肌で感じているからからこそ、世の中何もかも思い通りにはいかないものだ…ということを悟っている、ということなのかもしれない。

おすすめ児童書:『大どろぼうホッツェンプロッツ』(偕成社)

この本を読んだことがある人は割と多いのではないだろうか。あごひげを生やし、帽子をかぶった大どろぼうホッツェンプロッツ の物語だ。小学校の図書館には必ず置いてあるに違いない。

大どろぼうホッツェンプロッツに盗まれたコーヒーひきを、二人の少年カスパールとゼッペルが取り戻しに行く冒険物語である。タイトルはホッツェンプロッツだが、物語の主人公は実は二人の少年の方である。この本の魅力は何と言っても強烈な個性を持つキャラクターとテンポの良いストーリー展開にある。

まずキャラクターについて言うと「ホッツェンプロッツ」とか「ペトロジリウス・ツワッケルマン」という発音しにくい名前は、かえって強く印象に残るため、一度覚えたら忘れにくい。さらに大どろぼうのくせに実弾ではなくコショウピストルを使ったり、人間を鳥やカエルに変えるほどの魔力を持つ大魔法使いなのに、ジャガイモの皮は手剥きこだわったりしている敵キャラクター達は、悪党であることは間違いないのに、どこかユニークで愛嬌がある。

次にストーリー展開だが、こちらも実に秀でている。次から次へと物語が展開していくため、一つの章を読み終わっても、次の展開が気になり「あと一つだけ」「もう一つだけ」とついつい読み進めてしまう。小学生の頃、休み時間にうっかり図書館で読み始めてしまったことをひどく後悔したのをよく覚えている。(もちろん速攻借りて、家に帰って一気に読破した。)子供達二人が頭を使い、力を合わせて大人を出し抜くという点も痛快だ。

作者のオトフリート・プロイスラーは小学校の教師をする傍らアマチュア演劇やラジオドラマの脚本なども書いていたそうだ。この本を読んでいる時に感じる、まるで芝居を見ているかのようにその世界に引き込まれてしまうような感覚は、この本が喜劇的な要素を持っているためなのかもしれない。

おすすめ児童書:『くまのテディ・ロビンソン』(福音館書店)

この夏休みの読書用に購入した児童書の一つ『くまのテディ・ロビンソン』は、女の子とくまのぬいぐるみ、テディ・ロビンソンの日常を描いた物語である。

くまのぬいぐるみの物語と言えば、1926年に発表されたA.A.ミルンの『クマのプーさん』(Winnie-the-Pooh)が有名だ。しかしながら「プーさん=ディズニーの赤いベストを着たクマのキャラクター」というイメージが強いためか、プーが普通のクマではなく「クマのぬいぐるみ」であることを知らない人は以外と多いし、もう一人の主人公である、ぬいぐるみの持ち主クリストファー・ロビンの存在もあまり知られてはいない。原作のプーは、ディズニーとは全く異なる、ちょっとシニカルで独特の味がある物語なので、ぜひ一読してほしい。

話がそれてしまったが、『クマのプーさん』は作者が息子のクリストファー・ロビンと彼が持っていたくまのぬいぐるみ「プー」を主人公にした物語である。これに対し『くまのテディ・ロビンソン』は作者の娘デボラと彼女のテディ・ベアを主人公としている。このように、二つの物語は設定がとても良く似ているのだが、物語の雰囲気はまるで異なる。主人公が男の子か女の子か、という部分も多少影響していると思うが、一番の違いは、プーとクリストファー・ロビンは、コブタやフクロ、ウサギといった動物達と一緒に「百町森」という夢の世界に住んでいるのに対し、デボラとテディ・ロビンソンは母や祖母、友達の暮らすリアルな世界に住んでいる、と言うところにある。だから、テディ・ロビンソンは、ファンタジーの中に生きるプーのように自分で動くことはできないし、テディ・ロビンソンと話ができるのは実質持ち主であるデボラだけである。つまり、プーの物語は少年クリストファー・ロビンが「百町森」というぬいぐるみ側の世界に入って展開されているのに対し、テディ・ロビンソンはデボラの暮らす人間の世界で物語が展開されているのである。

テディ・ロビンソンはデボラの手によって病院やお店、遊園地など色々なところに連れて行かれ、そこで様々な事件に巻き込まれる。お店に置いていかれてしまったり、小さな子供に壊されてしまったり…私達の日常の中でも普通に起こりうる、ささいな出来事だが、当事者にとっては大事件である。お気に入りのぬいぐるみに話しかけたり、お世話をしたり、持ち歩いたりしたことのある子であればすんなり感情移入できるのではないだろうか。(うちの娘が持ち歩いたのは、ぬいぐるみでなく恐竜フィギュアであったが…。)

事件に巻き込まれた時、テディ・ロビンソンは基本的に自分ではどうすることもできないので、とりあえず考えたり歌ったりして事態の解決を待つのだが、テディ・ロビンソンを取り巻く人々は皆、思いやりがありユニークで、事件はいつもハッピーエンドを迎える。いずれのエピソードも、読んでいて温かい気持ちになることができる。
プーとテディ・ロビンソンの性格も大きく異なっている。よく考えたり歌ったりするという部分は共通しているが、プーは比較的単純で蜂蜜と歌のことばかり考えているのに対して、テディ・ロビンソンは、自尊心が強く、嫉妬したり拗ねたりと人間臭い部分があるのだ。どちらも男の子のくまという設定であるが、テディ・ロビンソンの方がいわゆる「女子っぽい」要素がある。

このように、プーとテディ・ロビンソンは、いずれもイギリス人の作者が同じくらいの時代に自分の子供とそのぬいぐるみをテーマに描いた物語であるが、世界観も物語のテイストも大きく異なっている。そこには「父親的視点」と「母親的視点」という作者の立場の違いが反映されているのかもしれない。しかしどちらの作品も、子供に深い愛情を持ち、その姿を温かい眼差しで見守っている…という部分は共通していると思った。

ちなみに、最近知ったことなのだが、『くまのテディ・ロビンソン』の作者ジョーン・ゲイル・ロビンソンは、ジブリの最新作『 思い出のマーニー』(When Marnie Was There)の作者でもあった。映画もなかなか良かったので今度原作も読んでみたい。

おすすめ児童書:『ふたりはきょうも』(文化出版局)

今日紹介するのは、ローベルのがまくんとかえるくんシリーズの最終巻『ふたりはきょうも』だ。理知的でマイペースなかえるくんと、感情豊かで単純ながまくんのデコボココンビの何気ないけど愉快な毎日の最終章である。

「あした するよ」は無気力でダラダラモードのがまくんにかえるくんがやる気を出させようとするお話。頭脳派のかえるくんの作戦勝ちかと思いきや…思わずくすりと笑ってしまうオチがついてくる。

この他にも、バカにされてもあきらめず、工夫し挑戦し続けることの大切さを描いた「たこ」、かえるくんが子供の時の怖い思い出を語る「がたがた」、かえるくんの機知が光る「ぼうし」といったお話がある。
最終話の「ひとりきり」はがまくんの健気な姿がいじらしく、愛おしい、そして最後に心が温かくなるお話である。

ある朝、がまくんがいつものようにかえるくんの家を訪ねると、「ひとりきりになりたいのです。」との張り紙がある。森や野原を探し回り、やっとのことで川の真ん中の島に一人座り込んでいるかえるくんを発見したがまくんは、何かに悲しんでいるに違いないと思い込み、元気を出してもらおうと奮闘するが、もしや自分が原因なのではないのかと思い始める…。

ローベルが4巻を通して伝えているのは、何気ない普通の日々が、いかに得難く素晴らしものであるのか、ということだと思う。最終話のかえるくんの台詞、

ぼくは うれしいんだよ。とても うれしいんだ。
けさ めを さますと おひさまが てっていて、いい きもちだった。
じぶんが 1ぴきの かえるだ ということが、いい きもちだった。
そして きみという ともだちがいてね、それを おもって いい きもちだった。

という一節に、そうしたローベルの思いが凝縮されている。

昨日まで当たり前であった生活が、明日も続くとは限らない。戦争やテロが起こらなくても、地震や大雪といった自然災害が起こっただけで、どこまでも続いて行くように思われた日常生活はあっという間に寸断されてしまうのだ。

がまくんとかえるくん。この小さなデコボココンビは、穏やかに毎日を過ごすことができることに感謝し、幸せを感じることの大切さを教えてくれた。

おすすめ児童書:『ふたりはいつも』(文化出版局)

アーノルド・ローベル氏のがまくんとかえるくんのシリーズ第三弾『ふたりは いつも』の表紙には二人で仲良く雪だるまを作っているがまくんとかえるくんが描かれている。かえるくん達、冬眠するんじゃないの…?などと野暮なことを言ってはいけない。この絵本には、移りゆく季節の中でも、変わらず仲良く愉快に過ごしている二人の日常が描かれている。

一番最初の「そりすべり」は、かえるくんにたたき起こされ渋々そりすべりに付き合うことになったがまくんを通し、よくある「思い込み」の力を皮肉って描いている。続く「そこの かどまで」は、春を待ちきれずに「そこのかどまで」春を探しにでかけたかえるくんの子供時代の思い出話で、春らしいほっこりした気持ちにさせてくれる。夏の「アイスクリーム」ではがまくんが体をはって笑いを提供してくれ、秋の「おちば」は互いを想い合うがまくんとかえるくんの姿が心を温かくしてくれる。

そして最後の「クリスマス・イブ」は、なかなかパーティーに来ないかえるくんを心配するがまくんの杞憂を面白おかしく描いたお話である。しかし、フル装備でかえるくん捜索に飛び出すがまくんの姿を滑稽だと笑って終わりにしてはいけない。「きみと いっしょに クリスマスをすごせて とても うれしいよ」という一言に、この絵本のメッセージが込められている。大切な人と一緒に過ごす、何気ない日常生活が、どれほど貴重で幸せなことであるのか。小さくてゆかいな二匹のかえるは、私達に大切な事を思い出させてくれる。

おすすめ児童書:『ふたりはともだち』(文化出版局)

以前紹介したふたりはいっしょ (ミセスこどもの本)と同シリーズの児童書である。この本の中の一編『おてがみ』が小学校の国語の教科書に掲載されていたらしい。(もしかしたら今も掲載されているのかもしれない。)

おてがみをもらったことがないと沈み込むがまくんのため、友達のかえるくんが喜ばせようとひと肌脱ぐ話である。手紙を託けたのがかたつむりくんだったため、結局二人で4日間も手紙を待つことになってしまうというオチも心温まる。

ななちのお気に入りは、『おはなし』である。ちょっとぬけてるけど心優しいがまくんと、理屈っぽいけど賢いかえるくんの対比が際立つ話で、読むたびにクスクスと笑っている。

がまくんもかえるくんも、いつも自然体である。拗ねてみたり、甘えてみたり、理屈をこねたり…。時には相手のことを笑ったりもするし、心配して思いやったりもする。こうした姿は実に人間臭く、ふたりは間違いなく絵本の中で「生きている」のだと感じる。アーノルド・ローベルの絵本に共通するユーモラスで温かい世界は、こうしたキャラクターの気どらない人間臭さからきているのかもしれない。

おすすめ児童書:『クマのプーさん プー横丁にたった家』(岩波書店)

クマのプーさんと言えば、赤いベストを着たハチミツが大好きな、ディズニーランドのプーさんをイメージする人が多いと思う。アメリカンな「ディズニー プー」も、もちろん魅力的だと思うが…私はやはり原作の「イングランド プー」が好きだ。

原作のプーは、森で暮らすプーとクリストファー、そして友達の動物達の日常やちょっとした冒険を、クリストファーの父が語り聞かせる形になっている。ここに描かれているプーは、ただの食いしん坊ではなく、考える食いしん坊である。大真面目に、理屈をこね、熟考して行動するのだが…最後はいつも、クリストファーのように「ばっかなクマのやつ!」と微笑ましい気持ちで笑ってしまうオチがつく。

夫は生粋の「イングランド プー」派であるため、ななちが生まれてすぐにこの本を買ってきた。ななちを口実にしていたが、おそらく自分が欲しかったのだろう。幼稚園の頃は読み聞かせても「それってどういうこと?」という質問ばかりで、イマイチ面白さがわからなかったようだが、小学生になってからは、大真面目におとぼけをかましているプーさんに大ウケで、読み聞かせている間中、クスクスと笑っていた。一話読み終わっても、「もう一つだけ読んで!お願い!!」と続きを懇願され、読み終わった後も、話を思い出してはケタケタと笑続けていた。楽しすぎて興奮してしまうため、寝かしつけにはあまり向かないかもしれない…。
漢字にふりがながなく、使っている言葉も難しいので一人で読むのはまだ少し難しいようだが、続きを読みたさに頑張っていた。翻訳本独特の小難しい言い回しも、なんとなく感覚で理解しているようだ。大人も子供も夢中になれる一冊だと思う。